荻窪の地名になった
荻窪の「荻」の話
 荻窪百点 319号

荻窪の地名になった荻窪の「荻」の話

松葉編集長松葉編集長

「荻窪の地名は、どうして付いたのだろうか?」と、荻窪に住んでいて疑問を持った人が、どのくらいいらっしゃるだろうか。日常的には、「荻窪」の名前は当たり前すぎて、そんなことは、あまり考えないだろうが・・・・

荻窪の地名のゆかりの「光明院」

荻窪駅西口から左へ。線路沿いに白山通りを三鷹方面に徒歩5分、環八通りガードと交差する。ここに、荻窪の地名と深いかかわりのある光明院がある。その由緒は、門を入って右手にある大きな石碑に刻まれている。
それによると、
「諸国を行脚していた行者が、観音様の仏像を厨子に背負って、この地にさしかかると、突如、観音様が大石のように重くなった。歩けなくなった行者は、これは、仏がこの地にとどまることを望まれたからに違いない、お告げだと、辺りに生えていた「荻」を刈り集めてきて「草堂」をつくり観音様を安置しお祀りした」とある。和銅元年(708)とあり、これをもって光明院の創建としている。

「荻窪」の地名の由来

この観音様は大変に「ご利益」があるということで評判が評判を呼び、光明院は「荻窪の観音様」と呼ばれるようになり、近隣の村々の人たちもお参りしたいと言うようになった。行きたいが、そのお堂はどこにあるのかと聞くと、「荻の生えた窪地だ」という。それが、だれが言うとなく、いつしか「荻窪」の地名になったと伝承されている。
「荻窪の名を残したり荻の寺 襄」

光明院は、どんなお寺?

草堂に始まる慈雲山荻寺光明院は、通称「荻寺」と呼ばれ、真言宗豊山派に属する杉並で最古の古刹である。お堂を建て「荻堂」と呼ばれるようになって信徒も多くなり栄え、草堂の跡に本堂が建てられたが、七堂伽藍(大門、金堂、講堂、塔、鐘楼、経堂、僧房)の格式を揃えた大寺院であったという。残念なことに、天保11年(1840)の大火で建物は焼失し、寺の古い記録の全てを失っている。本堂は10年後の嘉永3年、同じ場所に再建されたが、明治22年に開通の甲武鉄道(現・JR中央線)計画で東北の現在の位置に移築された。昭和44年(1969)に、本堂を嵩上げして地階を舞台を備えた。

ホールにすると劇団文学座(金子信夫)に稽古場(公演)として貸していたが、その後、一般葬儀のために用途変更して斎場とした。更に、時代にあわせた斎場を併設した納骨堂「慈雲堂」が平成23年につくられた。

大変な歴史を持つ

ご本尊の千手観音菩薩坐像(高さ72㎝)は、南北朝(1300年代)の作。また天和2年(1682)10月銘の大きな手水鉢が見つかり、墓地からは、高さ32㎝のⅠ石五輪塔と文明2年(1470)銘の板碑などが見つかっている。これらは良質な石が使われていて、石材の産出のない武蔵野平野にあっては、はるか遠方より運ばれてきたということで、いかに、このお寺が寺運盛んだったことをうかがい知ることができる。
また、古い記録書として知られる「新編武蔵風土記」には、お不動、六地蔵、泣きべそ地蔵なども記載されている。
六地蔵は、享保13年(1728)に講中82人によって建てられたとある。泣きべそ地蔵は、丸彫り高さ約2mの大きなもので、小張吉兵衛(本むら庵)が両親と奥さんを相次いで亡くし菩提のために寄進したものとある。はじめ普通のお顔だったが、だんだん悲しみのお顔に変わってきた。それは施主の深い悲しみがお地蔵様に通じたからと語り伝えられて、この名前がついたという。
昔、光明院の寺領は、井草八幡宮の社領を境として広大な寺領地を有していたが、明治時代の神仏分離により、光明院、荻窪八幡神社、天祖神社、荻窪白山神社のそれぞれに分けられた。のみならず境内は、甲武鉄道(光明院は誘致賛成派)の開通で二分され、環八通りの整備で分断。さらに中央線の複々線化、環八通りの拡幅等により境内が削られてしまう。寺領を失ってきた運命のお寺といえる。
鎌倉時代には、鎌倉幕府は、ここを鎌倉古道(環八通り)で通じ、四面道に幕府の北を守護し祈願するためとして秋葉神社の祠を建てた。祠は環八の拡幅により、現在は荻窪八幡神社に末社として合祀されている。

光明院遺跡

善福寺沿いは住みよい場所として古代から人が住んでいた。そのため、杉並区(東京都)は、辺りを遺跡指定範囲として、そこに建造物を建てる場合は、遺跡調査を義務付けている。光明院遺跡と名づけられているここ一帯は(あんさんぶる荻窪なども含む)、石器、土器、石器が出土し、住居跡が確認されている。慈雲堂建設のときの事前遺跡調査にも土器などの出土、住居址が確認された。

「荻」って、どんな植物?

荻窪に住んでいて「荻」を知らない、知っていてもススキと見分けがつかない。さらには、文字では「萩」と書いている。荻窪人としては誠に残念なことである。
植物学的ないろいろな違いはともかく、「荻」と「ススキ」の違いと、その簡単な見分け方は、
「荻」は、イネ科ススキ属の高さおよそ2mにもなる大型多年草で、河川、池の水辺の湿地帯近くに地下茎で広がり、茎をそれぞれ直立して伸ばし、姿は竹林のように見える。
「ススキ」(薄・芒)は、山野、高原のような乾燥地に群生する。風に乗った穂によって種は広く運ばれ、種から株立ちして、姿は稲のように見える。
荻と全く似ている「ヨシ・葦」は、水中にのみに群生するので間違えることはまずない。

自生の「荻」は、どこにあるの?

現在、自生の荻は、荻窪北口広場(荻の広場)、光明院、妙正寺池公園、読書の森公園、弁天池公園など、「荻」保存会によって株分け移植されたものや、善福寺川緑地公園、一部個人宅に残されたものだけで、群生の姿は無くなってしまった。

「荻」と文学

「荻」は別名を「フミクサ」とも言われ、日本最古の文学書、万葉集や更級日記、後撰和歌集などに古くから詠まれて、その名を残している。
《和歌》「荻」は、古語の「招き(をき)」
に通じるとし、万葉の歌人は秋風に揺れて音を立てる荻に、待ち人を招き寄せる願望を投影したといわれる。また、荻はヨシ(葦)より細長く風によく鳴るので「荻の声」と詠んでいる。
○先人が詠んだ「荻」
妹なろが使ふかわずのささら荻
あしと人言語りとらしも 万葉集さらりとも思ひし人は音もせで
荻の上葉にかぜぞ吹くなる 詩歌集
○たてよこ短歌会会員(平成29年)
街なかに風留めたる荻原よ
荻刈る人の今も輝く  頌 子
荻の葉の風に揺れおりビルの間に
鰯雲流るここは我が郷 の こ
その昔荻で葺かれし観音堂
鎌倉へまで道は続けり のり子
《俳句》十月の季語:荻の風、荻の声、荻原、荻。三月の季語:荻の角、荻の芽。
○先人が詠んだ荻の句
荻吹くや葉山通ひの仕舞馬車 高浜虚子
荻吹くや提灯人を待つひさし 高浜虚子
風の音や汐に流れる荻の声  幸田露伴
○「荻」保存会会員の句から
数々の文士招きし荻の声
後世に伝える故郷荻の街
荻の穂が招く弁天池公園
《歌》荻を織り込んだ歌。愛唱歌とし、荻窪の応援歌としたい(CDあり)。

故郷は荻窪  平成28年
作詞・山下啓義 曲・田辺 望
一、荻の穂が そよいで招く
窪地の沼に 行きつけば
水面輝き 風渡る
古き故郷 今想う   (以下略)
《小説》上林 暁
「光明院の鐘の音」昭和27年
私は廃道同様になっている旧参道を辿って、線路の向こう側へ渡って行った。(中略)そこの両側の土手には古びた石地蔵が、鼻が欠けたり手が欠けたりしてならんでいるのだった。衰えた残照に照らされたそれらを見ているうちに、あどけない姿をした数基の地蔵が、顔を寄せ合うように並んでいるのに気がついた。顔を近づけてみると、それらは揃って何々童子、何々童女の像ばかりであった。それも又どれも戒名の美しいこと。私は読み漁りながら夢心地であった。(中略)そんな美しい名の仏様になった童子や童女たちは慶応の頃から、いまだ夢からさめなくて…。土に深く埋もれた馬頭観音の碑で墓地の一角は終っていた。振り返ると残照はもうほとんど暮れていた。

自生地の「荻」と「荻」保存会

荻は全国に分布する。しかし、荻窪の地名になった「荻」にこだわって荻窪の荻を大切に守って育てようという会ができた。提唱したのは松葉総一郎(当社先代社長)で、上井草の薬局主人・堀井進を会長に大学農学部の先生、光明院の田代住職、宇田川太一氏ら数人でスタートし、一般に協力会員を募った。「荻」保存会の誕生は、昭和40年だった。
その当時、群生して荻が残されたところといえば、善福寺川沿い南荻窪と千川上水沿いの二ヵ所しかなく、それも、間もなく宅地造成と道路整備で、荻は刈り取られるという。
会の仕事は、まず、この自生の「荻」
を株分けして残し移植することだった。まず選んだのは荻窪駅。国鉄の協力で荻窪駅北側の線路際の小さな空き地に移植することができた。「荻」の立札をたててホームからも見え、かなり話題にもなった。更に広めようと、個人宅にもお願いするがなかなかなく、結局、杉並区の協力をえて、公園、学校に広めていった。
「荻」普及のために堀井会長は、荻細工を思いついた。荻で十二支を作り、毎年の干支を杉並区、荻窪駅、中央図書館、光明院、荻窪百点などに寄贈した。この話はニューヨークタイムズに大きく取り上げられた。
堀井会長が亡くなって数年、会は休眠状態となっていたが、「荻窪の地名の由来の荻を大切に保存を考えよう」とともに、「それが荻窪を思う気持ちを育てることになれば素晴らし」と、昨年8月、私(松葉襄)は会長を引き継いで活動を再開した。ちょうど、天沼弁天池公園に荻の移植もされて(山下啓義グループ)、会の再興

の力にもなった。現在、会員は180名を超えて増えているが、更に会員を求めている。
移植第一号として、荻窪駅ホーム北側に植えられた荻は、その後、駅前広場の整備で現在のところに移されたが元気だ。ここは『荻の広場』と称して待ち合わせするのに便利にしている。
会の活動は、杉並区に協力を要請しての荻の手入れ整備や、「荻」を知っていただくために、みずほ銀行荻窪支店2階ロビーでの写真展、かふぇほーるwith遊での展示、天沼サロン講座での講演などを行ない、また、今後の会の展開を話し合っている。

荻窪の応援団でもありたい

この会は、「荻窪の地名となった、消え行く荻窪の自生の荻を守り、広める」ことを目的としてきたが、あわせて、「荻窪の応援団」でありたいと願っている。そのために、「荻窪風土記」を著した荻窪の作家・井伏鱒二を幻の応援団長としている。荻窪に住む人、街に来る人、だれもが共に荻窪が好きになり、荻窪をふるさと感覚で暮らし、また過ごせることを願って活動していきたいと思っている。
皆様の応援をお願いし、共に活動していきたい事である。    
(郷土史家 松葉 襄)
次号は「荻窪駅ができた頃の話」