荻窪界隈の歴史散歩 東南コース/ (平成25年9月10日)
[char no=1 char=”松葉編集長”]平成25年9月10日読売カルチャーセンターで「荻窪界隈の歴史散歩」のテーマでお話したレジメです。東南コース/荻窪駅南ロ〜旧青梅街道〜都電杉並線始発停留場跡〜中野銀行(現・東京三菱U F J )跡地〜電報電話局跡~郵便局跡〜丸長〜公衆トイレ〜名主・中田村右衛門屋敷跡(藤沢ビル) 〜ジロンジ=工リー〜ローマの休日(ミニ階段) 〜ギャラリー槐(無名塾) 〜読書の森公園〜荻窪体育館〜杉並区立中央図書館〜オーロラの碑〜杉並区公民館〜新旧青梅街道分岐〜天沼陸橋〜インテグラウタワー〜杉並区産業進行センター(産業観光)・荻窪まちづくり会議〜さよなら都電第一号杉並線停留場跡〜荻窪駅北ロ広場[/char]
荻窪の繁華街形成の基点 都電杉並線と天沼橋
集落から村へ、そして街へと発展していく過程に、それぞれの中心となる場がある。荻窪でいえば、井荻村の役場の置かれた周辺、荻窪駅、その間に西武軌道鉄道の発着停留場が、その核の役割を果たしてきた。
青梅街道と「まち」の中心
町の発展は何か中心となる、言わば核になるポイントがある。昔は村の人が集まる処といえば神社やお寺があったが、それは町への発展の核とは言えない。集落が村、さらに街へと発展して行く過程には核になる何かがある。荻窪に見ると、まず井荻村役場ができたところ、そして甲武鉄道開通して荻窪駅、西武軌道鉄道の停留場が街への発展の拠点と言える。それでも荻窪駅は甲武鉄道の開業の頃はまだその役目を担うほどのことはなく、内田秀五郎村長が村の区画整理をすすめるために荻窪八幡神社の近くに村役場を置いたところがポイントになった。周りに小学校、銀行、警察、消防などを集め街発展の拠点とした。そうした位置付けによる街の核は、西武軌道鉄道が開業するようになると、その始発停車場が町の中心になり商店街の形成という形で町が発展させた。このころは町を発展させる原動力となるのは商店街形成が大いに絡むところだ。つまり荻窪駅ができたから町の中心になるとは言えず駅周辺にマーケットが集中して荻窪駅が町発展の拠点となった。荻窪の「まち」発展は。現在から将来に向けて、杉並区は荻窪駅を中心と位置付けで、「まち作り」の取り組みを始めている。町の発展は、時代によって人を集めるところを中心に変わってきている。そのことから荻窪の中心は時代と友に変わるが、町の発展に交通問題は欠かせない。
今回は、この視点で路面電車を注目して街の歴史を巡ります。
※荻窪駅は杉並最初の駅として明治2 4年に開業。
※大正1 1年、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の各駅が開業。
路面電車の始発停留場跡
甲武鉄道の開通した翌年、それまで青梅街道を走っていた乗合馬車が鉄道に利用客をとられて廃業。その後の大正1 0年に荻窪から新宿への路面電車か 登場した。西武軌道鉄道で、旧青梅街道と鉄道の交差する大踏切(現・地下道辺り)の新宿寄りに停車場ができた。この周辺には初めての中野銀行(現・東京三菱U F J銀行)や郵便局・電報電話局などが次々開業、そして商店が形成され、荻窪は、ここを中心に通りは賑やかな商店街に変貌して荻窪の新たな発展となった。西武軌道鉄道は、後に東京府に買収され都電杉並線となったが、この路線の発展は目覚ましく、利用客は多く都電となって中でも花形でドル箱路線と言われた。
この路線は単線で、しかも軌道幅が他線すべてが1 3 7 2に対して、狭い 1 0 6 7の軌道で敷設さた。西武軌道鉄道の財政事情から負担を軽くするためで、このことが、後に路面電車廃線第1号の原因になった。
荻窪の繁華街として賑わった通り
中野銀行、郵便局、電話局などが集中し、当時人気の古物会館や商店が立ち並び、荻窪の代表的商店街を形成した。大踏切の閉鎖、駅東よりのマーケット群の衰退、商店街名も付かないまま商店街の姿は消えてしまった。
公衆トイレ:
なんでこんなところにトイレが?繁華街として通りが賑わった頃の名残で、今、電柱の地中化、カラー舗装の整備がすすめられ、将来は緑豊かなやすらぎの通りとしてお洒落な通りになることが期待される。
中華そば・丸長
長~い行列のできる、「荻窪のラーメン店」の代表的存在として有名になった。長野から戦後出てきた三兄弟がそれぞれ始めたラーメン店で、丸信、興華とともに繁栄したが、店主の高齢化で昼の時間のみの営業になってしまった。それでも「うまい」と、その名を轟かせたのは「つけ麺」のファンがいつばい。 「つけ麺」元祖と言える。「荻窪のラーメン」で全国の に名を馳せた店の「丸福」も「漢珍亭」も店を閉じ、 こもいつまで続くかで寂しい話だが、若い店が次々開店。「荻窪のラーメン」は今、新たな時代を迎えつつある。
シロンシュエリ 3398ー5600
真珠のミキモトバールの創設者・御木本幸吉翁とともに技術者として創業の発展に携わった先代で、その技術を生かした二代目の高橋正志さんは、独立して本格的にジュエリーの店を現在地に始めました。奉職を売るというより技術を生かしオリジナルデザインによるリホームを主とし、また外国有名プランド日本代理店の修理を全面的に引き受けているなど大忙しです。また、高橋さんは、これからの街のことを考え、美しい楽しいストリートのまち起こしを考えます。
「ローマの休日」のミニ版階段映画に出てきた、あの階段のように見えませんか?
オードリーヘップバンがソフトをたべるあのシーンを想い浮かべて下さい・・。無理?そうがもね。閑話休題です。
ギャラリー槐(えんじゅ):
オーナーのご子息が画学生で戦地に赴き戦没。偲んで戦後に画廊を開き絵画展を日時時間限定で開いている。長野の戦没学生の美術館「無名塾」にも出品している。
荻窪体育館 .
2 0 0 2年の五輪 ・ パラリンビック招致の決定に開催横断幕を掲山( 9月5日)
読書の森公園:
中田和夫氏の昔の話
中田和夫氏の土地寄贈と要望によってできた公園。
マハトマ・ガンジー像.ガンジーは、非暴力・不服従運動を通してインドの独立を指導した政治家で、インド独立の父といわれます。その像が、たてられたのは、日印交流協会(会長・根本郁芳)が、ガンジー修養所トラストの活動に賛同して募金運動をおこなったことへのインドからの感謝の意との して送られて、中央図書館のこの地が選ばれて設置されました。
当初の計画では、同じインド独立の志士とうたわれたチャンドラ・ポースも予定されました。仮政府を建てて武装して日本軍とともに戦いましたが、終戦近く日本に逃れ台湾空港で事故で亡くなりました。高円寺・蓮光寺が引取り葬儀をおこない、胸像を建てて供養しています。インド側の事情からガンジーとともに荻窪に建てることができませんでした。(荻窪百点292号)
杉並区立中央図書館(遠矢氏案内)
オーロラの碑
杉並区公民館
新 青梅街道0岐 新0青梅街道0分岐とし、、 新宿方面 ら来 と、
くなった。そういう状況に、都電杉並線は、地下鉄という手強い競争相手が生まれま、「荻窪線」と呼ばれる地下鉄丸の内線が昭和3 6年に延長して杉並区内を走るようなると、乗客が大きく減少、いっ廃線になってもおかしくない営業状態になた。それでも路線の生き残りをかけて模索し、路線のより便利差のために、新宿ガードを越えて築地線に接続し延ばすことを計画しました。しかし、杉並線と築地線の軌道幅の違いは計画を進めるためには致命的な問題で、実行不可能と断念しなければならなかった。次に考えられたのは、荻窪からの乗客を増やす手段で、それには青梅街道の分岐点から終点までの複線化でした。これも道路幅と車の交通量の問題で不可能とわかり、最後に出た案が、青梅街道を天沼橋を複線化で越えて 0 荻窪駅北ロ前の東光ストア前に停留場を移すことだた。北口にはバス路線が集中し、利用客の増加を見込んでのことだた。しかし、時既に遅し。時の流れは道の軌道を走る都電は邪魔物でしかなく、路面電車は廃線への道をたどり始めていた。はじめに対象になたのは日本橋線と杉並線で、利用客の激減していた杉並線が都電廃線第1号おなり、杉並線1 4系統はドル箱路線の華やかな栄光の歴史を残して消えた。昭和3 8年の1 2月に花電車で飾られ見送られた。
※日本最初の電車を走らす
明治2 3年(189の上野公園で開かれた内国勧業博覧会で、藤岡市助が、
現在の科学博物館の前辺りで、日本最初の電車を走らせた。この成行により、明治3 9年(1906)には、東京~大阪間に高速電車鉄道を走らす大計画を推進しました。藤岡は、電球の国産化の道を開いた人でもありました。
※地下鉄丸ノ内線・荻窪駅から、まだ延びる線路
荻窪駅は終点の駅ですが、線路はホームより更に2 0 0。ほど延びている。計画では青梅街道をたどて西武新宿線田無まで延ばして接続しようという計画があたからだ。しかし、西武鉄道堤義明社長の反対で断念。そのうち環8が青梅街道の下をくぐり、構造上、青梅街道を地下鉄を通すことができなくなり、 この計画は消えた。 西武鉄道では、 田無から地下鉄にお客をとられたくないからという話が噂として残 ているが、 これからの町作りに、 地下鉄の延長が望まれている。 現在、 荻窪駅には終電から朝の始発まで3本の電車がとま ていて、 1番線と2番線と、 その奥の延長線路に待機している。
※地下鉄丸ノ内線と荻窪団地丸の内地下鉄線の工事によって出た膨大な土は、西田田圃(田端たんば)を埋めるのに使われ、荻窪団地がでた。
天沼橋(通称・天沼陸橋)
陸橋の工事が始まったのは、昭和1 5年。日本が戦争への道をすすみ始めた時で、中島飛行機製作所の生産、輸送に支障をきたさないために青梅街道と中央線の平面交差を避けるためだった。
戦争が始まると工事の完成が急がれて、完成したのは終戦も間近い昭和1 9 年だった。橋の中央部の線路側に、何に使われるのか見張り台のようなものがついたが、何おためだか不明、橋は完成したのも東の間、すぐに米軍の爆撃に合い半壊してしまい、鉄道線路は徹夜で復旧工事で即日開通したが、橋の方はそのままに放置されて終戦を迎えた。
天沼橋が修復完成したのは昭和3 4年だったが、車の通行量は少なく、草ばうぼうの状態で、車は当然のこと人も通らず、しばらくは相変わらず旧街道が使われていた。整備して開通し本格的に使われるようになったのは、鉄道ダイヤの過密化で中央線の複々線化にともなう踏切に閉鎖であった。
それまでは、 こは見晴らしの良い高台なので散策で訪れる人が多く、春にはそよ風を、夏にはタ涼み、秋には赤とんばが飛び交いタ焼けは見事で、冬に雪が降ればソリ、スキーで遊ぶ子どもたちの喚声が聞こえた。現在でも歩道を行く人は少なく静かで、のんびりとした静かな散策を楽しめるスポットとして車の激しく行き交う様は想像もできなかった。憩いを楽しむ場所として「荻窪の八景」を選ぶといつもトップになった。
ここから線路の飛び込み自殺者が出てから自殺防止のために橋の欄干は柵が高くっくられ、遠く眺望を楽しむ事はできないばかりか殺風景になってしまった。そこで、東京女子美術大学の学生さんが、柵に絵を描くようになった。橋の脇には通路の階段があり、昔は近くに花籠部屋のあって、若いお相撲さんたちは、 こをトレーニングの場として利用していた。
※インテグラウタワー(第2国際マーケット跡地) 戦後、東京の三大マーケットの一つとして残っていましたが、再開発され、
に待機している。
※地下鉄丸ノ内線と荻窪団地丸の内地下鉄線の工事によって出た膨大な土は、西田田圃(田端たんば)を埋めるのに使われ、荻窪団地がでた。
また、中間点では戻ることも大変な時には乗客を対向電車に乗り換えました。複線化を何とかすすめようと試みられましたが道の狭さにはどうしようもなく、新旧青梅街道の分岐から旧青梅街道に入った終点までは最後まで単線でした。
車社会になると軌道を走る都電は邪魔な存在となり、一時、とローリバスが導入されますが、渋滞に巻き込まれ都電は無くそうとなりました。そういう与の流れに日本橋線と杉は上がりました。それでも残そうと、利用客を期待できるバス路線の集中する荻窪駅北口に陸橋を渡 て移しました。 そして、 ん便利な路線としてさらには青梅街道を田無まで延ばすことが噂として流れもしましたが、 時の流れで、 その実現はありませんでした。