荻窪歴史散歩 西コース 平成27年11月10日

松葉編集長松葉編集長

平成27年11月10日読売カルチャーセンターで「荻窪界隈の歴史散歩」のテーマでお話したレジメです。
(ルミネ前広場)~観音押出し~喜屋~ルナキクヤ~ユアビル~三井住友信託~武蔵商事~伊藤羊華堂~北ロ大通り商店街(名店街)~亀屋酒販~春木家総本店~万田サイクル~東信閣~宇田川本家邸~駅西口日の出街~駅西口白山通り(映画館街・西友ストアー)~~中田瓶やさん~棟方志功宅跡~白山神社~大踏切~光明院~杉並公会堂街並みに荻窪再発見

荻窪」の地名の由来光明院

ルミネ広場イルミネーション

毎年恒例として駅西口広場では点灯式が行われ、年末年始の夜はイルミネーションで輝きます。※杉並公会堂・天沼教会、八丁通り、タウンセプン(新興マーケット)
荻窪商店街の発展、特に西口が開けた原動力となった。
観音押出し(かんのんおんだし)
青梅街道から光明院までの道を昔は「観音みち」と言い、光明院に詣でる道でした。この道の青梅街道と出会うところで「観音押出し」と言った。昔は鬱蒼と木々が茂り昼なお暗く寂しい所で、この辺りにはよく追剥ぎが出たとは古老の宇田川太一さんの話。
北ロ大通り商店街
荻窪北ロ大通り商店街は荻窪の最初の商店街。「北ロ通り協和会」(大正 1 3年)と「商栄会」と連合して、荻窪駅北ロ開設を鉄道会社に要請。昭和2年に開設。この商店街は天沼陸橋から四面道までの日本一長いアーケードの商店街。振興組合(会長・今村国治)の結成で駅前の東西に分かれ、東は 「荻窪駅前通り商店会」 となった。
☆名店街:荻窪北ロ大通り商店街のうち、角の電話屋さんから増岡洋服仕立て屋さんまでの商店は業種的レベルが揃て繁盛し自ら「名店街」と名った。この角は、荻窪の土地公示額が出るときの位置付となっている。
☆おもちゃの喜屋:昔は「棒屋」。戦後におもちゃ、プラモデルなどを商いとしてタウンセプンにも店を出していましたが、少子化とゲームプームによる大手商法について行けず喜屋ビル3階のプラモデル店のみ。ここには全国コンテストの優勝作品が幾つも並ぶマニアックな専門店として有名。
☆ルナキクヤ:戦後に衣料品のなかった頃、この店には品数が揃いいつもいつばいで、売り出しなどは順番街の繁盛でした。
☆ユアビル(宇田川ビルディング()0)
☆三井住友信託銀行、
☆三井住友銀行.
☆武蔵商事:以前に伊藤羊華堂があった所。
駅西口日の出街:戦後の闇市やマーケットが飲みや街に変って行く中で、荻窪で唯一「街」として残っている商店街。
亀屋酒店:卸と並行して店で種類を売る。昔は、店頭で帰宅前にコップ酒を飲むだ人達でにぎわった。
春木家総本店:荻窪のラーメンは全国的に知られるようなり、全国にラーメンプームを引き起こした。それを引き金に今では世界にラーメンプームが広がりましたが、春木家系の代表店でした。ローソンは花盛り・・・だが、次々撤退。
万田サイクル(万田勇) :昭和6年、青梅街道の拡幅でお向かいから現在のところへ移ってきました。まだ青梅街道に田用水が流れていました。
東信閣:以前には東信水産の経営する中華料理店。今は閉店して予約で会場を貸している。杉並区と契約の緊急避難所。昭和1 5年、第二次近衛内閣のとき政治的な国民統制組織「大政翼賛会」が生まれ戦争への道を進んだ。この新体制づくりに有馬頼寧伯爵により推進。実質的に支えたのが副総裁の陸軍中将安藤紀三郎閣下で、ここが居宅だった。
※万田勇氏の出征の日の丸。
※東信水産社長・織茂章則氏は荻窪タウンセプンの代表取締役。
宇田川本家邸:駅西口にあった宇田川邸は、甲武鉄道開通のため現在地へ。
※庄右衛門の地主としての好判断で新興マーケットをタウンセプンと開発できた。 現在は宇田川紀通氏が社長。 自宅敷地で東急ハンズを誘致に契約できたが、 車通行の問題から成立できず貸し駐車場に
☆宇田川太一:父を亡くして4歳で家督を継いだ先代庄右衛門の後ろ盾として本家を支えた。叔父の太一氏がいてこそ本家が荻窪の名家として残って現在がある。教育委員会にも勤め荻窪の移り変わりを正確に伝えた人。
荻窪駅西口:荻窪駅の改札は、甲武鉄道開通の時には南ロだけ。駅北ロは昭和2年、町整備事業をすすめていた井荻町町長・内田秀五郎と地元商工会によって鉄道会社に交渉し改札口ができました。
駅西口の開設は戦後で、宇田川庄右衛門は荻窪の町の発展には娯楽施設が貧 必要と考え映画館家誘致。荻窪駅西側南北跨線橋設置協議会を設立し駅西ロ改札ロ設置を推進。昭和3 4年に開設。
映画館街と西友ストアー:宇田川家(庄右衞門)の住まい跡。名画座パルナスを開業、荻窪大映・日活パルナスも誘致。隊りには荻窪東亜会館(トーアボウルのちパチンコ)が封切劇場の荻窪東映日活と特選洋画のオデヲン座が開業。白山通りは賑わいのきっかけに 映画界に陰りが見えて、荻窪大映。日活パルナスは昭和4 1年の正月興業を最後に閉館。替わって「レストランむさしの」と2階に「喫茶リード」を開業したが直ぐに閉店し、新しく西友ストアーを誘致。商店もではじめ街の形を整えはじめて、再開発ビルに西武百貨店の誘致しようとして。交通路、床面積規模の問題で現在の西友荻窪店となった。
白山通りの発展 駅西口の開設でにぎわう道となったが、昔は、光明院の境内を通り抜けるわずかな人の通学通勤者の道で、普段は人通りの少なく寂しいものだった。戦後、駅西口には、砂利・砂などを扱う土金(つちきん)、隣りに盆栽、金魚などを売ってる照楽園、向かいには杉丸太や薪炭を扱う燃料屋の丸三倉庫。そして通りの中程にはビン屋の置き場があったぐらい。通行人も増え店が並ぶようになって店の人たちは商店会をつくり話となった。
白山通り商店会の結成:昭和4 6年(197D 4月1 5日、会員4 8人が参加の商店会を結成。
会長・宇田川庄右衞門、副会長・広瀬大八、楢原誠、会計・柴田嚴太郎、中田金治、 監査。小林祥浩、 鈴木友三郎。
白山通り商店街の名称と通り名.
いろいろな名称の提案がでたが地元の鎮守様の 「白山さま」 をいただいた名称は「白山通り商店会」となり、自然に通り名も「白山通り」と定着。
瓶やさん跡(中田平吉) :材木屋さんの材木立て掛けのような大きなャグラの棚に回収してきた一升ビンいつばいに、回りにもうず高く積み上げられた集積所。一升ビンは千葉県の野田醤油へ。
棟方志功宅跡:「世界の棟方」と言われた板画家・棟方志功は白山神社参道脇に住んでいた。その間、荻窪の人達と関わりをもち交流した。街にある志功さんの手掛けたもの:
o ・天沼中学校の「春夏秋冬」/長男・巴里爾の卒業記念に贈られた。
・白山神社:長男・巴里爾の結婚式の折、贈られた版画や書。
・御菓子司「金太郎」の包装紙
・御菓子司「松屋」店名口ゴ、店名額
・地元の主婦のはがき:子どもの似顔絵
・安井電機会長南荻窪の自宅:ビエンナーレ大賞の「十大弟子」。
☆志功さんの「ペンクラブ」
☆巴里爾の酒代:蔵に版木を収蔵。巴里爾が自分で刷り酒代に。今は住宅が建った。巴里爾の奥さんが在住?
荻窪白山神社:祭神:伊邪那美命
白山様と親しまれている旧下荻窪の鎮守。
社伝によると、「文明年間(1469 ~ 1486)に関東管領上杉顕定の臣、中田加賀守が知行千町歩( 3百万坪)を領して荻久保に住んでいたが、管領没落して後、野に下りこの地の百姓となって名を大学と改め、屋敷地内に
(五社’五社権現” )を勤請し祀り、後に加賀(石川県)白山比ロ羊(しろやまひめ)神社から分身をいただきお祀ったのが白山神社の縁起。
☆『新編武蔵風土記稿」によると、
「下荻窪の五社権現社とあり、上荻窪光明院の持であったが、大正1 3年 6月に村社となった」とある。
☆歯痛の神様:中田大学(加賀守)の弟、兵庫は歯痛に悩むことが多く困っていたところ、荻の橋で・・・。「歯痛の神様」と信仰厚く今に伝えます。昭和4 3年0 =社搬が建、替えられたとき、 古0、社殿0長押から荻0箸が。
☆社殿は、 慶応元年9月に改築され、 茅葺き0建物0傷みが激しく昭和4 2 年2 月 1 0 日から解体し昭和4 3年5月に現在の社殿となりました。
☆大きな老松:
中田大学が植えたといわれる老松。 昭和2 3年に松喰虫の被害で枯死。
☆狛大 – 狛大の一対のとして高麗犬があり、 こちらのルーツは、 神や王位の守護神としての獅子 (ライオン) の造形で、 日本で一対として狛犬と獅子の組み合わせで「あ」「うん」で構成された。
☆白山神社の女神輿
荻窪に何か名物が欲しいと、氏子総代である新興マーケットの鯛焼やさん・コバルトの野辺節義さんと北ロ大通りで居酒屋津久波を営む星野末吉さんらが中心となってまち起こしにと。祭神が伊邪那美命であることもあって「女神輿」が誕生。掛け声は、素朴に「ワッショイ、ワッショイ」。
荻窪駅の貨物駅の通路の名残:
荻窪駅の貨物扱いは駅開設当初は乗客より売り上げが多く、甲武鉄道の主収入源として経営を支えた。戦中戦後にわたって貨物扱いは鉄道を主として日本通運の拠点となったが、宅急便など自動車輸送に移ると荻窪駅の荷物扱いは撤退し、貨物用プラットホーム跡や大きな敷地跡はルミネ荻窪のビルに。貨物扱いの盛んなときの通路の痕跡として側道が残っている。
駅西の大踏切り:荻窪駅の東西に開かずの踏切。特に東側の踏切は、荻窪駅貨物車の入れ替えで閉まり待ち時間が長かった。環8が整備されると車の通行が急増し、四面道とともに交通渋滞をきたした。立体化へと先ず進む。
慈雲山光明寺3390ー4647
寺伝によると、鎌倉幕府の北の祈願所。※「鎌倉道」によって建立。七堂伽藍を備えた大寺院で、天保1 1年(184の2がつの大火災により建物が焼失、寺宝も記録も失った。
☆「新編武蔵風土記稿」によると、☆お不動さん☆六地蔵・なきべそ地蔵 ☆「荻窪」地名の碑:「荻窪」地名の由来と伝えられる光明院。通称は「荻寺」と言われ、銅元年を(708)起源とする由来が碑に刻まれている。
荻窪の名を残したり荻の寺松葉襄
☆斎場は、昭和・・年に本堂が建て替え、地階に舞台をつくり劇場に。田代先代住職の妹田代のぶ子さんが劇団文学座の女優で劇団の舞台稽古に使った。宏範住職自身もピッコロ人形劇団を主宰して公演も。
☆閻魔堂
☆散歩の小径 = 昔は境内を町0人は自山に行き来した。 葬祭場が、き、現在は通行を制限。 代わりに 「散歩の小径」 とし駅 の通路を確保。 季節の花を咲かせ楽しめる径とした。
☆慈雲鹸 = 平成3年に くられた葬祭場。 霊廟内中央正面に南北朝の期の作とされる光明院本尊となる千手観世音菩薩像を安置。
☆光明院遺跡
杉並公会堂/最高級の音質
戦後、ここが原つばの頃、レスリングの練習場。有名選手を輩出。
1 9 5 7年の創立以来、東洋一の音響とたたえられています。2 0 0 6年に現在の会堂に建て替えられて、スタインウェイ&サンズ・べーゼンドルフア・べヒシュタインの世界の三大ビアノとヤマハを揃えました。本格的なクラシックコンサートを主目的とした大ホールと小ホールを備えた公会堂。日本フィルハーモニー交響楽団の活動拠点になっています。
☆村越義房の設計
旧杉並公会堂の公会堂はその音響効果が日本一といわれた。収容人数で興業的に無理とされ収容人数の多い新しくできたホールへ移っていった。
音響効果が優れているため演奏録画(音)には使われてたが、利用度が落ち老朽化もあり、新しい現公会堂に。
※現在、長男の徹氏は、渡辺邸を少し人った所に住み、オペラシティなどの設計はじめスタッフとして活躍しています。
☆杉並公会堂避難訓練コンサート(希望者)事前申し込み制出演:指揮/五十嵐清演奏/東京消防庁音楽隊演習:公演中に地震発生、火災発生の想定で訓練。
演奏中断しホールスタッフの誘導で避難。
その後に演奏を楽しむ。