個々人の人間力を高め 会社のため地域のために
株式会社井口鉱油 代表取締役会長 井口 一与氏

松葉編集長松葉編集長

ガソリンスタンドや車検で有名な井口鉱油が過去進出して撤退したのはビデオショップです。

株式会社井口鉱油代表取締役会長井口一与氏

——井口さんのお名前ですが、地元の姓ですね。ずっと荻窪ですか?
井口 井草に私で4代目です。隣の本家は18代で、そこから分かれて、うちは明治からです。
——荻窪の井口姓の元は?
井口 伊豆の方です。多分、最初は三鷹に井口新田ってありますから、そこに来て、そこから関町に入って井草に来たと思うんです。この地の井口には3人の子がいたので三派ができたようで、家紋は亀甲と井桁と丸で三つの柏の葉が入っているんです。分家は今、260世帯もあるようです。
——地元に、ずいぶん分家で広がりましたね。
井口 おそらく、四面道から北の井荻、上井草は全部井口の土地で、大げさに言えば杉並区の六分の一と思うんです。大沢さんも昔は井口姓です。荻窪には大きな地主さんが沢山ありますが、井口のように広がらなかったですね。
——井口さんは地元に根づいてですね。
井口 うちは妙正寺ですが、入口の一番いいところにお墓があるんです。昔はみんな自分の畑の中に墓を持っていましたが、うちは墓がなかったけれど、先代の長男が日露戦争の203高地で戦死して、それで一番いいところを譲ってもらえたんです。親が息子は一番の親孝行だったと変な自慢をしてましたね。

「これからはモータリゼーションの時代」と父親が農家から転身

——土地に古いというと農家だったでしょうから商売へのきっかけは?
井口 父は農業に見切りをつけて、目をつけたのが燃料というわけです。おじさんが清田商店という結構大きな石炭問屋に勤めていましたので、親父は中島飛行機製作所に卸す石炭屋をはじめたんです。戦争に負けて、ダメになり水道屋をやろうと思ったらしいけど難しそうで、これからはモータリゼーションの時代だとガソリンスタンドになったんです。
——それで、ご自分の土地の今のところで始めたんですか。
井口 はじめ、環八と早稲田通りの交差点の所に目をつけてやりたかった様ですが借りられず、仕方なく自分の畑が井草にあったものですから、そこで始めました。
——井草の千川通りと新青梅街道の交差した所ですね。いい場所ですね。
井口 今でこそです。昔はひどくてね。まだ下水がなかったので千川通りが舗装されていたので雨水が流れこんで川になって、ガソリンスタンドに来るには川を渡らなければいけないという所でした。ものすごい赤字ですよ。何しろ新青梅が舗装する前の昭和35年のころは家もない、だから車なんか持っている人もいませんね。そんな所でやる人いないですよ(笑)。最初に目をつけた場所とは3倍くらい売り上げが違いますから。でも親父はやりたいものだから始めたんですね。灯油なんかは注文があれば配達していました。ガソリンスタンドは一日にドラム缶1本売れるか売れないかで、お客さんは1時間に一人来るか来ないかですから。それで、商売に熱が入らなくなってね。
——その後に、ガソリンスタンドはどんどん良くなっていったでしょう。
井口 良くなったのは、東京オリンピックの時です。環八が舗装になり、新青梅街道が田無の先が出来てつながってから一気によくなりました。昭和43年頃には千川上水は埋められて大きな道路になってね。

高校時代から手伝い、大学時代には実質社長に

——ところで、会長は何時ごろからお店に?
井口 昭和38年ぐらいの高校時代から手伝っていました。それで、41年に大学入ってからは親父から印鑑なんか全部預かって、親父は社長ですけど何にもしなくて私が人を集めて店の方針も決めてやりました。それでも、45年に大学を卒業した時は本当はよその会社に入りたかったんですが、母から「お前が商売やらないと、親父はガソリンスタンドを手放すよ」と言われて続けました。その時、手放してもらった方が良かったかなぁ(笑)と思いましたね。
——なぜですか?現在、立派な会社になっているのにですか?
井口 昭和41年にガソリンスタンドを1億円ぐらいで買い手がついて売る気になりましたが、それで、母親に言われては逆らえないですからね(笑)。店を直して続けて、年商が4000万ぐらいあったんですが…。
——すごい。驚きですね。
井口 そうなると資金がいる。銀行に頼ったけれど貸してくれないんですよ。それで中小企業金融公庫に行ったんです。部長さんが「お前、若いから貸してやる」って、計画書から書類を全部作ってくれて、4500万円を貸してくれた。ありがたかったですね。今、考えるとぞーっとする金額です。年商分以上の借金ですからね。それでも、23は若いですから、自分が寝ないでもがんばってやれば自分で返せると思ったんです。そうしたら、売り上げが倍々ゲームになっていきましてね。
——よかったですね。
井口 そうです。その頃は、うちはメーカーと直接取引ができなくて神田の問屋さんとの取引でした。神田駅前にガソリンスタンドを持ってると当時の荒利が4割ぐらいだったんです。それで一軒のお店の営業利益で10億円規模の会社の全部の経費が賄えたんです。昔はガソリンスタンドは儲かったんですよ。今は最悪の商いです。(笑)、とにかく、ガソリンスタンドは元気がなければダメと元気を出して、お客さんを送り迎えなどやるんです。1、2年で売り上げを上げてね、一時は共同石油で日本一になりました。
——すごいですね。石油の流通問題は大きいでしょう。
井口 そうです。共同石油は国策会社で、通産省が肝いりで始めました。昭和40年に非上場ですけど、中小企業の精鋭のダチョウのマークの東亜石油とフクロウマークのアジア石油って会社、それと上場している日本鉱業を中心にカクタスが共同石油を作ったんです。この会社は、精製はしていない石油販売会社で、昭和40年には一流大学から優秀な人を入れて一時は和製メジャーと言うか、ものすごくいい会社になって、私も昭和51年にはダイレクトに共同石油と取引するようになりましてね。
——マージンがよくなった?
井口 それで、取引が有利になって、業績を上げました。自分で言うのも何ですが、よくやったと思いますよ。
——お母さんの言う通りにしてよかったじゃありませんか?
井口 (笑)。直接取引になって石油会社に行くんですけど、20代の私が一番若い。何十億の商売している黒塗りの車に乗って来る大きな会社の社長とは親子みたいな歳の差で、私などガキですよ。
——確かにそうですよね。
井口 うちの親父みたいな人が、みんな課長さん、部長さんなんかですから、私は可愛がられましたね。
——よかったですね。それで取引がやりやすかった?
井口 それもそうですけど、そんなことやりながら当時は遊びばかり。ゴルフや飲むことやマージャンもそうだし。それが仕事になったんです。

時流に乗ってガソリンスタンドも増えて

——それでも、本来の仕事は?
口 そう、どんどんガソリンスタンドを増やしましてね。商談する課長さんとは肌が合わないから代えてくれと先輩に言って変えてもらったりもしてね。いい課長が来たら毎年、自分では増やしたくなくてもスタンドができちゃう。私が増やしたわけじゃなくて、増やしてもらったんですよ。
——時流に乗ったんですね。
井口 そうですね。その時に、親父から多店舗展開じゃなくて、この店だけ地元だけ守ってればいい、店なんか多く出さないでやれと言われ、そんなんじゃ面白くないと(笑)。
——たてついたんですか(笑)
井口 そんな感じで社長交代をやったのが昭和60年ぐらいです。それからは毎年一店舗ずつ増やしてね。売り上げが倍々ぐらいになって、一時60億ぐらい売り上げていましたね。親父の実印も親父から渡されて社長をやっていましたから勝手ができたわけですよ。そんな中でバブルがはじけて。
——大変なことに…?
井口 先輩達から、お前そんなことやっていたらダメだと言われていたんですが調子に乗っていたら、バブル崩壊になっちゃってね。人間は、調子に乗っている時は誰の言うことも聞かない。調子に乗ったやつに言っても無理(笑)。バブルがはじけて衿をただしたんです。今は会社をデカくしようとか一切思わないけど当時はね。専務の弟と対立して意見が合わず厳しい時代でした。弟が反対して、でなければ、ああしろこうしろと言って会社をもっと大きくしていたかもしれない。今では、彼は私より勉強して、すばらしい経営者です。
——そこまでいくまでもなく、いろいろな問題があって乗り越えて?
井口 そうです。ピーク時には、タイのバンコックに、あられ工場を作ってね。自分がやりたいのでなく倒産して何とか助けてくれという友達に頼まれて乗せられた。今考えると、本当に道楽ですよ。本当にバカみたいなことをやってね。昭和60年から平成7、8年の頃までは店は出せば売れちゃうわけでお金はあったからね。どんどん店を出すのは出すんじゃない、出ちゃうんだよと言うんです。それが怖いんですよ。私は仲間にも言われたし自分もそういう経験して、最終的に問題は、人が育っていないということですね。ムードでいっちゃった。
バブルが弾けて残ったものは……
井口 後ろ見たら、誰もいないんですよ。やばいと思って、3時間しか寝ていないときが2〜3年ありました。ビデオショップの蔦屋ね、あれもそうです。
——それ、何ですか?
井口 儲からないのはわかっていたんですが、お金があったから2億4千万円で蔦屋を作ったんです。ガソリンスタンドは人が集まらないので、その宣伝のためにうちはこういう事業もやっているんだと蔦屋を前面的に出して募集して大卒を採ったんですよ。
——客寄せパンダで人材確保ですね。
井口 そうです。が、運悪くバブルで会社の調子が悪くなってね。蔦屋は年間5千万円ぐらい儲かっていたけど2億5千万円ぐらいで売りに出したんです。すぐ売れると思っていたら2年間売れなくて、それでも我慢していたら最後の最後に2億5千万円で買ってくれたんで、それでうちの会社は息をついだんです。あきらめないでやるべきだなと思いましたね。

経営者が一番勉強できる

——それは経営者としての勉強でしょうね。経営責任は大きいですから。
井口 社長が一番勉強できるんです。つまり責任者が一番にね。戦術というのは日々の実践じゃないですか。戦略は、そのための「志」なんです。自分はこうなりたいとか、会社としてこうありたいとかという哲学で、それがないと何も出てこない。ビジョンとか経営哲学は非常に大切ですね。今の日本人って頭だけはすごい。けれど、じゃあ実行となると、それが問題です。そこは、ビジネスは、やはり体験が大切ですね。
—慎重に順調にですか。
井口 昔、うちが倒産するかもしれなかったことがあったんです。会社は自分が作ってきたけど、そうなると自分ではもうどうにもできないんです。というか何も出来なくなってしまうんですね。
——そんな事があったんですか。
井口 その時は、全部自分をさらけ出して計画を作ってもらって、その通り実行しましたよ。そのとき思ったのは祖先に守られているということでした。会社が大きくなるのも縮小するのも自分の力じゃない、自分でやったことは一つもないと。普段の人間磨きをしっかりしてないとできないと思いました。
——経験の中での人間磨きですね。
井口 いい時はあまり感じないんですが(笑)悪い時はね。それにしても祖先のおかげですよ。そして、ものすごく今は、女房をすごく大事にしていることです(笑)。
——それは人の基本でしょうね。
井口 小さいとき、親父はお酒を飲むと母親にあたってね、よく離婚しなかったと思いました。アメリカはすぐ離婚でしょう。最近はそうでなくても離婚は多いようだけどね。親が離婚していたら私はここまでにならなかったと思う。子供にとって親の離婚はいかに最悪だってことですね。夫婦仲が良くないとね。自分のためじゃなくて、子供のためにそういうことを考えないとね。

人格のいい人が集まる会社には自然に会社も良くなる

井口 いい人格の人が集まると会社も社会も自然に良くなります。大切なことは、個々の人格を上げることですが、そのためには子供の頃から家庭で人格を育てなくてはいけません。それが今はできていない。どうしても会社で育てるようになるんで、どこの会社も大変だと思うんです。一流大学の新卒者がうちなんかに入ってくるけど、本当に、ものすごい頭を持っているんですよ。でもコミュニケーションができない。社会生活ができない人が多いです。
——家庭のしつけからですね。そうなると…。
井口 少なくても3歳までは親の手元で育てないと人に必要な感性ができてこない。それも母親じゃないと育たない。男では育たない。だってそうでしょう、特攻隊で出撃して「お父さん」って死んでいった人ほとんどいないでしょうね?いざというときは、そこなんですよ。私だって、一緒に生活しているから親父であって、生まれて3年間はどんなことがあっても、母親が愛情を持って育てないと感性が豊かにならない。他人が抱きしめたって感じないよ。小学校の時、私はお母さんって帰ってきました。いないと寂しいんですよ。いなかったら帰らなかったと思う。そこにいるだけでいい。一番いいのは、そうして人間関係コミュニケーションをつくれる人が育つことなんです。そうした人間を会社は欲しいですよ。頭がいい以前にね。
——大切な人間形成ですね。
井口 それと大きくなっては,すごい人は愚痴は言わない、人の悪口は言わない、否定的なことは言わないです。逆に問題がある人は、愚痴は言うし人の悪口は言う。自分がいい人間とは言いませんけど (笑)ね。
——自分自身のコントロールは難しいところですね、なかなか。
井口 人の悪口言っていれば、その場は気持ちいいですが、それが習慣になるとね。言わない人は言わない習慣になるんです。そして人間力が出てくるんです。すると、そういう仲間が集まるからどんどんよくなる。
——そのようですね。
井口 自分を磨くには内観をしないとダメですね。内観すると頭に来ないしね。私は、昔はわがままで主張する方で、喧嘩っ早くってよく喧嘩しましたよ。だから昔はヤクザとか言われていました。今はちゃんとした顔しているでしょう?(笑)。傷がなくてよかったなと思っているんです。
——感心する話が次々とでてきて、びっくりです。
井口 銀行の方が来るでしょう。昔は社長はおっかなかったなと言っていますね。
——今は優しい顔で(笑)。
井口 もう一つ大切なのは、人生はバランスだということ。相手に悪い事したらそれは自分に返って来る。いいこともそう。プラスとマイナスがあって陰と陽があって、天と地があって男と女があるように大自然は全部バランスでできている。バランスをいかにとるかが世の中のためにもなるのかなと思ってます。
——そうすることによって、自分の人生に悔いがなくなるでしょうね。
井口 そうです。お金なんていくら稼いでもきりがない。金はついてくるもので、社会でもよく予算はどうのこうのと言いますが、予算で区切るんじゃない。そう思ってればそうなってくるんですよ。しかし、日本人の価値観は金になっているでしょう?だからそこが怖いです。お金があれば成功した人と思われるのはね。

体験から独自の哲学を築いて

——井口さんは体験からくる哲学がありますね。
井口 それも人間、苦労しなくちゃだめだって、よく親父に言われたんですよ。そして、ピンチになったときにチャンスに変えられる人間じゃなければダメだってね。あきらめちゃダメってことです。いろんなことを試されてピンチになったら自分の力を発揮できるんだと、そういう心がけが絶対必要なんです。世の中はあきらめさせるようにするんだから。それをクリアするのが人生で、それが楽しいですよ。
——そうなればね、
井口 生きていくには楽しい生を方をと私は思っています。二十歳は二十歳、三十は三十の五十は五十で、六十は六十の面白い人生が10年ごとに刻まれると。
——人によって間隔は違っても、そういうことは誰にでも言えそうですね。
井口 五十なりに一生懸命やるでしよう?それが六十に活きる、そういう感じかなと思います。だから人生はやり直しはいくらでもきくんです。心次第で人間いくらでも変わる、そう思ってやっているんで、だから、これからも楽しみにしているんです。

将来を見据えて新しい方向を定めて日々挑戦

——㈱井口鉱油という社名からは、明らかにガソリンを扱う会社のイメージですね。井口さんは、これまではガソリンスタンドで事業を大きく発展させて来られましたが、直近のニュースでは環境問題からフランスに続いてイギリスまでもガソリン車から電気自動車へとガソリン離れで、将来へと向けて転換を明言してますね。
井口 社会の時流というのは避けられません。当社は、ガソリンを売るということで確かに業績を大きく伸ばしてきましたが、その問題は予測出来たことで、すでに、当社は「環境に易しいカーライフの実現」そして「地域密着型のトータル・カーサービス」をテーマに方向を定めて、昭和48年には自動車整備事業の展開をしています。そして、その対応のためにも社是にもある社員個々の「仕事を通じ、自己を成長させること」をすすめています。イグチ・グループは変化を求め続けています。それは顧客ニーズに応えるために不可欠なことで、日々の変化の挑戦です。
——御社は、中古車の販売にはかなりの実績があり信頼があると評判を聞いていますが。
井口 確かに、そういう評判をいただいています。業界の中古車オークションがあって週3万台の出品車の中から選ぶことが出来て、適正価格で買える安心、信頼に応えています。例えば、外見きれいにしていてもひどい事故車もありますからね。そのためには信頼です。この事業はニーズに合わせて業績を伸ばしていますが、当然、新車の販売あってのことで、車検とあわせて当社の中心部門として伸ばしてきました。
——確かに…。そのための社是がいかされますね。
井口 企業を支える個々人の自己成長は大切ですね。その変化の源は、高い志、夢・ビジョンです。それを実現していくことは仕事の取り組みにあると思います。今は会社を大きくしようと思っていません。社員の教育を徹底して社員がそこまで成長してやるかです。命令ではなく主体的に動けるような人を育てないと会社は伸びません。人間力です。表面だけ一生懸命やってもお客様にはわかってしまいます。心からやらないとね。ガソリンスタンドでさえそうですから、何百万とする高い車を売るとなると、さらに信頼がないと売れませんね。人間力を高め本音で話さなきゃいけない。人間力を高めればいろんなものが売れると思います。そういう集団を今は作ることですよ。

6月に社長を退任会長にボランティアで街に恩返し

——この六月に社長を井口清三氏(写真)に渡し、ご自身は会長に就任するというご挨拶状を頂ましたが、これまで以上に何かお考えですか。
井口 これまで社員をまとめてくれていた専務が定年で辞めて、それで、弟を専務にしたんですが、専務であろうと弟にとっては社長の私は兄貴なんです。社長とか上下じゃないんです。それは私も親父で経験していることですがね。
——そうでしょうね。それで…
井口 会社は売り上げがなくて潰れるとは考えなかったんですが、専務と私とでやっていては会社は潰れると感じたんです。それは、会社として戦略をきちんとたてて一所懸命にやっても、戦術、つまり実践で違う主張の二人がいるとうまくいかなくなります。戦術で戦略を変えることになると力が二分されてしまうと言えます。そうなれば大変です。愚直に徹底して長続きさせないといけません。
——そうでしょうね。
井口 会社がおかしくなるのは全部、ナンバーワンとナンバーツーの意見の違いからですよ。弟は専務ですが、これまで好きにやらせていたんですから、それで「一切責任を持つか」と聞くと、「やる」というので全部任せました。私には一切文句を言わなかった親父と同じに、私も責任だけとるからと言ってね。人間ってすごい。今は私以上に頑張っています。私は専務に、6月1日に社長をバトンタッチして会長になってね。
——これからは、どうなさいますか?
井口 今はボランティアで街の安心安全です。花と緑をつかってね。花が整然と植わっているところには絶対ドロボーが寄り付かない。消防署の署長さんに聞いた話ですが、火災を起こす人は家の中が乱雑だってね。きちんとなっているところは、火災も起こさないし、ドロボーも入ってこない。それと防犯カメラです。この設置は犯罪抑止だとか検挙率にいかに役立つか、事故が起きた時も証拠にもなるしね。力をいれていきたいです。昔はこの辺はね、家に施錠がなかった。私が家で寝ていたら友達が来て隣に寝ていたなんてこと何度もありましたよ。私の理想として、そういう町を作りたいな。できたらね、最高だなと思っているんです。
——論語の会をされてるとか?
井口 そうです。月に1回若い先生を呼んで論語の会をやっています。本当は社員でやりたいけど、今は経営者など20人ぐらい集まってね。お巡りさんや銀行の支店長も来てね、ビジネス論語です。「論語を学んで何か役に立つのか」と、ある経営者が問うので、私が「あなたの会社は赤字だろう」と返すと「赤字です」と答えた(笑)。会は全くのボランティアでやってます。
——いろいろ、これからも…。
井口 論語に書いてありますよ。『学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』と書いてありますよ。学ぶだけでは、ダメなんだ。思いの強さが成就するんだと。ボランティアでもね、これからは会社の中は任せて私は地域社会に学んでまいります。
(平成29年8月)
写真・松葉 襄 撮影または所蔵
hr>

名   称 : 株式会社 井口鉱油
本社所在地 : 東京都杉並区井草5-1-10
電   話 : 03-3396-3171
代 表 者 : 代表取締役社長 長坂 剛
創   業 : 昭和21年



次回荻窪の経済人(8)は、株式会社 チャイルド社 代表取締役社長 柴田 豊幸氏です。

--