荻窪会社、個人を束ねて 公益社団法人荻窪法人会は荻窪の発展をサポートする

松葉編集長松葉編集長

東洋時計(株)の小竹良夫氏が会長をされている荻窪法人会ができたのは昭和25年です。

東洋時計株式会社代表取締役社長 小竹良夫氏
東洋時計㈱のおいたち

——小竹良夫さんは、東洋時計㈱の二代目で、荻窪の経済人として大変に活躍されています。まず、会社の沿革からお聞かせください。
小竹 ウチの実家は富山の砺波で、富山の薬売りの行商人などを専ら相手とする宿をやっていました。しかし、父・信太郎は家業を継ぐことなく、町の郵便局に勤めました。めざすは郵便局長。田舎町にとっては名誉ある仕事でしたが、途中で時計の通信販売を始めました。そのきっかけは、たまたま手にした雑誌の「シアーズ・ローバック社」通信販売の記事でした。この記事に触発され、通信販売を独創で始めたわけです。父にとって方向転換となったのは、現金の扱いなど郵便制度や関連する知識と経験が豊富だったことです。まず、ターゲットにしたのは国鉄職員向けの通信販売でした。カタログを送るのです。これが思いのほかうまくいって、次は商売をするなら東京だと出てきた最初は浅草でした。ところが、働きすぎが原因か軽い結核、肋膜炎をわずらい、空気の良いところで静養を兼ねて仕事を続けようと、川南に自宅兼会社を構えました。
——商売の上では順風満帆ですね。それにしても、戦争という大きな壁がありましたね。
小竹 もちろん商売はストップしました。しかし、幸か不幸か、健康上のことから徴兵に遭わなかったため、終戦後、比較的早く仕事に復帰できました。
 戦後は物不足。時計も需要拡大で生産が追いつかない時代でした。今はネット販売ですが、当時は新聞・雑誌の時代でしたから大いに活用して販売を伸ばしました。さらには好景気の中で会社は順調に成長しました。戦争というブランクがなかったら、もっと伸びたと思います。
 創業は、昭和6年になります。
——そうした恵まれた環境で、小竹さんは、幼年期を過ごし、成長し、どういう道を歩まれましたか。
小竹 私は、昭和23年に荻窪で生まれて荻窪で育ち、小学校から大学まで一貫教育の成蹊に行きました。この学校は、もともとは岩崎弥太郎の孫がグループの社員の子弟教育のためにつくったので、マンモス校ではありません。授業料が高いことなどもあってお坊ちゃん学校という誤解がありますが、決してそうではないと思います。自分自身の人間形成という観点からよかったと思っています。最近では、安倍晋三首相が卒業したということで有名になりましたけれどね。
 大学を卒業した段階では、当時は中小企業がぐんぐん育って華やかな時代だから、他に勤め先を探すより二代目を継いでも面白いだろうと思いました。
 しかしそこで、待てよと考え、一般社会で見習いをしてから戻ってこようと思いました。けれど、親は私が一人っ子なので早く会社を継がせたいわけです。それでも私は海外を希望し、まず経験として一年間、香港の宝石屋さんで見習い奉公をしました。日本人観光客に商品を売ったり、バイヤーの手伝いをいたしました。
——そういう経験が、後に東洋時計が宝石部門を開設するきっかけにもなりましたね。
小竹 それで香港から日本へ戻ろうかと思った時、宝石の鑑定士資格を取得する学校がロサンゼルスにあることを知り、このまま日本に帰るより資格を身につけようと思って、そこに一年ほど行きました。「米国宝石学協会」というところで、かなり厳しく学び、日本人として17番目に資格をとり帰国しました。私は、時計・宝石の総合商社を目指す願望がありましたから。
——ホテルニューオータニに出店されて、多店化を図られました。
小竹 東京オリンピックの時代で、日本からのお土産としてはミキモト、セイコー、ナショナルなど国産ブランドが好調でした。日本最大のアーケード街があり、そこでメーカーのセイコーとタイアップして、1964年からセイコーショップとして販売するようになりました。続いては、京王プラザ、世界貿易センタービル、新宿センタービル、池袋サンシャイン、大阪ニューオータニなどにも出店しました。
——外国ブランドの輸入販売も行われました。
小竹 1989年、私の代になってからですが、当時まだ名前も知られていなかったイタリアのフェンディー社と契約して全国200ヵ所の百貨店・専門店で販売するようになりました。2000年代に入ってからは、モンタナ・ウォッチ、アイグナー・ウオッチなどとも契約を結び扱っています。

法人会について
——ここから、荻窪法人会会長としてお聞きします。法人会という組織はずいぶん前からありますね。
小竹 今の法人会は、戦後の税制改革の中、「申告納税制度の普及」と「納税道義の高揚」を中小企業自ら推進する目的で、全国の税務署所在地で立ち上がりました。現在の会員数は全国約80万社。税務を研修して税に理解のある経営者団体です。また研修だけでなく、税制要望・社会貢献活動も行っています。
——荻窪法人会の組織と規模は?
小竹 荻窪法人会は、昭和25年に設立ですから、今年で66年になります。その当時の荻窪法人会は、会員数が2〜300社でしたが、時代と共にどんどん増えて、ピーク時には3000社を超えました。現在は、景気が影響して減って約2400社。それでも加入率は荻窪の全法人数の8割弱で都内の法人会の中ではトップです。全国でも上位10位に入っています。
——相当の数値ですね。その理由は何でしょう。
小竹 会員同士の結束が強く、世代を超えていてもつながっていることが理由でしょうね。これは荻窪のまちの特性によるものかもしれません。
荻窪法人会の組織は、中心となる委員会として総務、組織、研修、広報、厚生事業、社会貢献活動事業、e—Tax普及推進があり、その他に青年部会、女性部会、源泉部会があります。みなさん、仕事を目的に入会しているわけではないですから、地域への貢献とか仲間づきあいというつながりを重視されます。商売上の関係ではないからこそ、自然発生的な親しい付き合いが続くのでしょう。
——そうして、公益法人をめざしました。
小竹 税金を正しく納めるという意味での納税協力や地域貢献に加え、個人事業主にも参加してもらい、任意団体から社団法人そして公益社団法人化へは自然の流れでした。
——小竹さんが、ご自分の会社に、法人会にと、時間をかけて精力的に活動するのは、まさに社会奉仕ですね。
小竹 会長職を務めて4期8年目ですが、都内に49法人会のある東京法人会連合会(東法連)の副会長も務めています。副会長は11名で、会長は唯一の大企業アサヒビールの元会長です。
法人会の会員数はバブルの頃で120万社に達していましたが、徐々に減少しています。中小零細企業の苦戦を示す数値です。
東洋時計の会社の方は二人の子どもたちに任せつつあります。
——法人会としての今後が問われますが、どうお考えですか。
小竹 中小企業経営者としては、競争社会を生き残る今まで以上の「自助努力」が求められると思います。政治への要望は、日本の企業の97%また雇用の70%を占め地域経済の担い手である中小企業に対しての支援と育成の方策を求めたい。
——公益法人になって、どのように変わりましたか。
小竹 これまでは法人会の会員資格は法人経営者に限りましたが、これからは個人会員でもよいことになりました。それで税理士さんを盛んに勧誘していますが、私としては、医者、歯科医さんにも個人の資格で、またその他、飲食関係の方なども入会してほしいです。また、大企業を定年で退職した地元を知らない方が入会するケースもあり、会としては大歓迎です。
——社会活動も広がっていますね。
小竹 全国の法人会には社会貢献委員会があります。青少年の健全な育成、特に租税教育や税意識の醸成を目的とするものです。例えば、地域への貢献として荻窪では、会が主催するチャリティーコンサートを杉並公会堂で開催し、盲導犬団体への寄付などもしています。全国の大きな災害には寄付金を募って義援金をおくっています。その他、女性部会では区内の小学校の授業で税金の使い方に関する講義をしています。その感想を子どもたちが絵葉書に書き、「税を知る週間」に優秀者を表彰しております。青年部会は、ハロー西荻で子ども達を対象の税金クイズをやるなどしており、これも租税教育の一環です。これからも地域での様々な貢献活動を続けてまいります。新しい方向性ですね。
——先代の小竹信太郎氏には荻窪百点創刊に際し発起人になっていただき、大変お世話いただきました。荻窪百点にひと言、お願いします。
小竹 地域のタウン誌として長い歴史を持っている、さまざまな資料の蓄積もある。地域発展のためにいい形で残してほしいと思います。そして折角の資料を広く披露していただきたいですね。     
(平成28年9月)
写真・松葉 襄 撮影または所蔵


名   称 : 東洋時計株式会社
本社所在地 : 東京都杉並区荻窪4-32-2 東洋時計南口ビル
営業本部  : 東京都杉並区天沼3-11-2 東洋時計北ロビル
電   話 : 03-3392-6111
代 表 者 : 代表取締役 小竹良夫
創   業 : 昭和6年10月



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