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松葉編集長松葉編集長

(株)興建社が手がけたユニークな小学校は天沼小学校です。

株式会社 興建社 代表取締役会長 水島 隆年氏
興建社の起業

——水島会長は若くして、創業の歳五郎氏から興建社を継がれました。九州の中津ご出身で、元々、建築業の環境があったのですか?
水島 先代が引退し、私が会社を引き継いだのは確か、35歳の頃と思います。私としてはあんまり跡取りという認識はなく、自然に親父の跡をついで社長になってしまったという感じです。この会社を任せるぞという話もなかったし、自然にです。
——先代が起業された建築業を継ぐのは、ごく自然ですが、何か特別な思いでも?
水島 私のうちは、姉が四人妹が一人と私という家族構成ですから、私が小学校に入った頃から、もう興建社を継がせるのは私しかいないと考えていて、常に「お前は興建社の跡取りだ、跡取りだ」と言葉でずっと言われてましたね。そういう事でもあったのかな、大学を出て松井建設という会社に就職して3年ぐらいでやめて興建社に入りました。
——興建社は、先代の歳五郎氏が起業してルーツができました。そういう環境だったのでしょうか?
水島 私が生まれ育った大分県中津というのは貧乏村なんですけど、慶応義塾の福沢諭吉先生の出身地でしたので、ものすごい貧乏でも学校に入れる風潮があって、学問に対する意識が高いんです。それで親父は、大正の終り頃でしたが、学校を出てから銀行に行こうと思ったらしく、しかし、片親だったもので銀行はだめ。それでやむなく日本大学の建築科の夜間部に通いながら、戸田建設に勤め現場代理人ということを昭和の21年までやっていました。
——努力家ですね。
水島 戸田建設は、「官公庁」の仕事、といっても戦中ですから陸軍の軍事産業の工事です。幼年学校とか、陸軍の格納庫とか、受けて工事を親父はずっと現場代理人としてやってきたんです。昭和18年から20年くらいまでです。だから親父は兵隊には行かなくて済んで、それで生き残これたんですね。
——それが興建社に、となった…。
水島 そうです。終戦まもない昭和21年頃に今の興建社を立ち上げることができました。戦後の日本を「復興する会社」「興す会社」ということで、興建社という名前をつけました。親父はもともとの建設業を、そのまま続けたという感じですね。
——先代は日本大学、会長もそんな関係で日大に行かれたのですか?
水島 そんなわけではないです。たまたま日本大学の建築科に入ったわけでコネがあったわけじゃありません。

官オンリーから民への受注展開

——同じ建築を学ばれて、先代は「官」、そこから大きく舵を切って会長は「民」の工事に変えた。大変にタイミングが良かったのではないでしょうか。先見の明とでも言えますね。
水島 先代と私とではガラっと性格が違ってまして、親父は自分についてこいという独裁的。自分についてくれば全員食わしてやるよという、自分についてくる人間を使うという感じのワンマン社長で長い間、この会社を経営してきました。反対に社員の融和、皆んなとともに会社をやらないとうまくいかないよと言うのが私です。性格的に親父は強かったですが、私は全然強いという性格ではないし、本当にのんびりしていてあまり競争心もなく、人を押しのけて出て行くという感じでもない。性格的に言うと、私のおフクロがそういう人間でしたから、それに似たんですかね。

鉄筋コンクリート建築がきっかけ

——「官」はかたい感じですが、「民」の仕事は会長の性格にあったのでは?とにかく民間の仕事を切り開いたわけですね。時流に乗って建築ブーム。民間の工事に取り組んでいて良かったですね。
水島 やはりタイミングというのがあって、それも大きかった。親父が興建社を作った頃は、杉並区から発注の仕事は全て木造校舎だったんですね。それが昭和27年から都内の学校が全部が鉄筋コンクリートに変わっていったんです。34年ぐらいまでの間に、小学校は全て変わりました。ところが杉並区には鉄筋コクリートの工事の技術を知っていた業者が、あまりなかった。親父の戸田建設での陸軍の工事は鉄筋コンクリートでやっていたので、興建社は杉並区の中で他社と差別化できて伸びたんです。28年から34年ぐらいの間に、小学校は鉄筋コンクリートに変わり、それまでの親父の技術が生かされて興建社が飛躍したと思っています。
——それにしても「民」と「官」では営業の仕方も違ってくるでしょうね?
水島 そうです、官庁営業は親父の時代。私の時代で官庁だけじゃだめだから民間の仕事をしようと、かつ荻窪に根付こうということで始めました。

地元に可愛がられること

——どういう切り口で営業を進めたのですか。
水島 まず私は、地元の工事をきちっとやらないと地元の人間になれないと考えました。そのためにはまず法人会とか、警察、消防とかあらゆる所に出ていきました。地元に馴染む、可愛がられるということを心がけたのが親父と変わった方針です。
——すべてが新しい?
水島 民間のお客さんから仕事をもらおうとなると、一つは私の親父が大分県なので、小田急電鉄の社長安藤氏も大分の人でしたので頼みに行きました。最初は小田急電鉄の建売とか駅舎とか、結構やらしていただきました。そうしながら、いろんなところにアプローチしました。親父と二人で興建社を作った私のおフクロの弟で飯田という専務がいまして、荻窪の中に馴染んでいこうと、まずは宇田川庄右衛門氏に近づきたいと毎日西友の食堂に食べに行ったんです。庄右衛門さんも毎日食べに来ていて…。
——それが、いいご縁となって。
水島 そうです。何にも挨拶しない男だけれど、「あれは誰だ」と庄右衛門さんから声をかけられたのは、5年かかったとか10年かかったとか言っていましたね。それから庄右衛門さんの仕事をやるようになりました。もう一つは、東邦信用金庫の内田昭理事長が、荻窪の中にもっと民間の若手の経営者を入れようと飯田専務が可愛がられましてね。東邦信金の支店を10ヵ所ほどやらせてもらいました。地主さんが多いので、そうしたことが地元に入り込む一つのきっかけになりました。
——地道な積み重ねですね。飯田専務さんは建築の方は?
水島 建築屋でもなんでもない一橋大学出たサラリーマンですけど、「飯田専務は建築屋らしくない。全然ハッタリがない、だからお前を気に入ったんだ」と、よく言われました。そういう方たちに飯田専務が営業して、そして私が受けついだんです。
——まずは、人の関係ですね。
水島 民間っていうのは、やっぱり誰かに可愛がられなくてはいけない。一番大きかったのは、やはり宇田川庄右衛門さん。親しくなった。内田さんは60歳ぐらいで亡くなりましたが、荻窪の歴史を作った内田秀五郎さんの次男坊ですね。奥さんの実家が古い地主さんで息子さんが区に勤めていて。
——そういう方の紹介って、ありがたいでしょう。
水島 杉並区で一番いい業者はどこかと聞かれて区の方が興建社と言ってくれて、ここにしたらと、それが大きかったですね。内田さんに可愛がられたのも飯田専務の功績です。飯田も中津の出身。私は、飯田専務と先代の水島歳五郎に育てられた。
——そうしてつくった地盤。選挙じゃないけど大切。興建社は荻窪周辺が基本的に地盤ですね。
水島 僕の代でようやく地元といえるようになりましたが、あと息子がやってくれて三代続かないと地元と、言えないとまだ言われるんですよ。息子は今社長を継いでいますから地元で認められたら、やっと三代になる。
——会長の代でもう地盤を築いたといえますね。それにしても区内には建築会社は、随分ありますね。
水島 建築業者というのはほとんど大工さんとかトビの方の出身が8割くらいなんです。私の親父みたいに、大手建設業者の代理人といわれて、勤めて独立したというのは戦後増えましたけど、それでも2割ぐらいなんです。大工さんから叩き上げた一種独特の現場あがりの建築屋と言うのはしっかりしています。
——大工さんと言っていたのが、いつの間にか工務店ということになってね。
水島 いわゆる棟梁ですね。棟梁になって工務店になって、自分の名前を使った、〇〇建設とか〇〇工務店ですね。荻窪、阿佐谷、高円寺の大工さんはみんなそうですよ。

思い出に残る小学校工事

——興建社で施工した数ある建物の中で思い出に残る建物は?
水島 やっぱり、地元の小学校の校舎ですね。これが会社の実績の一つとして一番は、30年くらい前にやった蚕糸試験場の中にある杉並第十小学校です。あれが杉並の学校の中で一番、ものすごくユニークな素晴らしい設計でした。
——プールが屋上に?
水島 そうです。建設省から営繕賞という賞を頂きました。公共建築賞というのが建設大臣官房官庁営繕部長から、これが我々にとって一番いい勲章です。
——学校の在り方もユニークでしたね。
水島 公園の中に学校を作りましたから、境がなくて誰でも学校の中に入れるという。その表彰状は我々にとって名誉で社内に飾ってあります。つい最近完成したのでは、中央合同庁舎三号館改修工事。それから、国土交通省の全面的なサッシの張替えで。国交省の仕事をもらうということは建設業者にとって格が上がるんです。
——そうでしょうね。監督省ですからね。
水島 これは建設省から直に仕事をもらった公共工事の建築賞という特別な賞です。古いのでは、荻窪税務署の仕事で、今壊そうとしている建物です。あれは国税局ではなくて建設省からの発注です。税務署といえども建設省が作るんです。やっぱり官庁の仕事で賞をもらうっていうのは、我々にとってはありがたい。
——天沼小学校。あれも大変だったんでしょう。
水島 そうです。天沼小学校は、地上4階建てですが、地下2階まであって、小学校で地下っていうのは、ほとんど無いですね。
 天沼小学校は杉並第五小学校と若杉小学校と合併して、その校舎は杉並第五小学校の跡地に建てられましたが、そこは大変狭く、校舎は下に深く上に高くなりました。あの学校はユニークなことをやっています。地下2階の広い空間に周りから水が染みて入ってくるんですが、それで夏は地下で冷やされた空気を上の教室に通して冷やしているんです。冬は逆に地下は温かいものですから、温かい空気を全く同じように流している。そういった空調設備をやっているのでクーラーをつけていないんです(注・一部に設置箇所あり)。そのための電気とかガゾリンとか重油とかは使っていない。小学校を自然の中でやろうというのが天沼小学校です。
——オープン教室で、これまでのような教室とは違いますね。
水島 いろいろな試みがあって、あそこは地下4階まで上に高いものですから、小学校ですけどエレベーターがあります。子どもには使わせていないですけど、全部エレベーターで先生方は動きますね。

会社の基本理念

——会社のあり方などを確立して、息子さんへ社長職を譲られたのでしょう?
水島 あんまり急激には伸びない会社だけど、荻窪の皆さんの信頼を得て伸びていこう。それが私の基本の考え方なんです。「一体感、どんな小さなことでもみんなで一緒にやっていこう」が基本理念です。そこで「○お客様に末永く喜ばれる仕事をすることにより企業を永続させます。○社員の幸せ・豊かさを高めることにより企業を永続させます。○活力あるいい社会づくりの一翼を担うことにより企業を永続させます」と、私がやって言ってきたことを息子(隆明社長)が文章化して、かっこいいことを書いて社内に掲げています。僕はそんなこと書くのあまり好きじゃないんですが、若手は社員にそういったことを知らせなくてはいけないと言うんです。
——立派に企業の考えが伝わっていますね。
水島 そうです。ハデにしないでコツコツというのが私のモットーです。
——それにしても、なんと言っても地元の実績がすごいですね。地元を代表する企業の一つです。表彰されたものも数ありますね。なかなかユニークなデザインのもありますね。
水島 そうですね。マンションでグッドデザイン賞をもらったのがありますけど、これはお風呂もまる見えです。僕こんなはこの建物に住めないですが、有名な建築家が作っています。住まいといえば、白山神社の脇の棟方志功の家も作りました。いい仕事ができましたよ。窓も何にもない本当にユニークな家です。荻窪百点の関係では、本むら庵があります。
——荻窪百点のお店紹介で、純日本建築って書いたら違うといわれました(笑)。
水島 あれは鉄筋コンクリートですから。
——それで日本建築様式をデザインに取り入れたと治したんですが、日本建築のよさがデザインに生かされてすばらしいですね。
水島 百点の前号に、根本特殊化学さんが出てましたけど、根本謙三記念館も手がけました。あとはチャイルド社の柴田さんがやっている保育園、それから荻窪あんさんぶるもそうです。

自分の設計通りの会社づくり

——御社で手がけた建物の名前を挙げると皆さん知っているものだけでも枚挙に暇がないですね。その間に地域のための公的ボランティアもされていて。
水島 私が一生懸命やったのが荻窪法人会で、平成13年から21年まで。次には荻窪警察の交通安全協会は平成17年から10年間、会長を一生懸命やってきました。平成21年から杉並建設防災協議会代表理事会長もやっていますが、今はほとんど引退して今残っているのが、杉並の工業の集まりの杉並産業協会の会長だけです。  
——平成26年には、交通功績として内閣総理大臣表彰もされました。ところで、荻窪の将来についてはどうお考えですか。
水島 荻窪には荻窪の将来を考えようという会はいろいろあります。それぞれがそれぞれに取り組んでいます。その中で、「21世紀の荻窪を考える会」というのがありまして、荻窪駅北口前広場を整備しようということで、駅前広場の重層化計画を図面まで作って提案をしました。実現できませんでしたが、大きな構想でした。また、何か荻窪らしさのあるイベントをと話し合って生まれたのが「荻窪の音楽祭」。クラシック音楽がふさわしいと「クラシック音楽を楽しむ会」を立ち上げ、宇田川紀通さんが会長で始めたんです。宇田川さんが東京商工会議所の杉並会長になって忙しくなって、私にやってくれということで引き受けて4年になります。杉並公会堂で日フィルさんと組んだりしてね。経緯など編集長が一番よくご存知かと…。

荻窪の将来は北と南の一体感が必要

——街の将来についてお聞かせください。
水島 それは地元として、中央線の高架化で南北通行の不便を解決するという大きな課題を抱えて一生懸命やってきたんですが、これはもう無理ということで、それでは、どういう形で南と北の商店街、住民の交流が考えられるかです。やらないと荻窪の発展はないので、できればそれを今後もやっていきたいです。南北を行き来するには、自転車も人間も渡りにくい、車は全然渡れない。青梅街道と、今は環八だけですからね。なんかそこをやりたいね。今後、それはJRとの交渉だと思いますけど、荻窪に南と北の一体感をぜひ持たさないといけません。阿佐谷も高円寺も西荻も南北の一体感はあるんです。宇田川さんと私でやり始めてきたので、これはやり遂げなくてはいけないと思っています。
——荻窪には、大勢の人が集まれる店やホールなど場がほしいし、また、ハードだけでなくソフトの面でも南北の交流のできる形を実現化していきたいものですね。
水島 まちづくりは百年の計画が必要で、ひとつひとつ問題を解決して、我々の息子に引き継いで行くようになるんじゃないですか。
——杉並区の中長期まちづくり計画に沿って考えると、そうでしょうね。
水島 私は、71歳の時に会社を息子に譲りまして、もう引退していますから。あと、いかにこの会社から逃げだすか(笑)ということです。居ると気になるんです。もう、アラばっかり見えちゃってね。何も文句を言わないようにしているんです。お客さんに呼ばれて、どこそこへ行ってくれと言われれば、行きますけど、あとはもう、自家指導をなるべくしないようにしています。私にはこの会社に居場所の部屋がなくて、隣のビルの部屋に隠居部屋を作って昼寝しているんです(笑)。
——それが出来るようになったということですね。自分の設計通りに会社はなっているということでしょうね。
趣味はゴルフと囲碁。
(平成29年3月)
写真・松葉 襄 撮影または所蔵


名   称 : 株式会社 興建社
本社所在地 : 東京都杉並区荻窪5-18-14
電   話 : 03-3392-6911
代 表 者 : 代表取締役会長 水島隆年
創   業 : 昭和21年5月



次回荻窪の経済人(5)は、株式会社 小 泉 代表取締役会長 長坂紘司 氏です。