創業75年、父と二人の夢をかなえた宝石サロン
荻窪の街づくり、子どもたちの育成にも心を寄せる
宝飾の勉強でロンドンへ
ヒッピーで日本へ帰国。そして…
先代はミキモトの職人から独立して
——お店の外観に高級感があって、お店というより個人の邸宅という感じ、覗くと立派な応接間。
普通のお店のようではないですね。
髙橋 よく、そう言われますね。間違えられるのはフレンチのレストランですね。この並びにあるので、そちらとよく間違えて(笑)。11時に予約した者ですが…と。うちもお約束のお客様があるけど、今日はアポはなかったはずだなと。よく聞いてみると、レストランのお客さんでした(笑)。
——ところで、ここに開店されたのは、いつのことですか?
髙橋 もう12年前になります。その前は上井草で、そこが28年程ですね。
——ということは、上井草が創業地でですか?
髙橋 創業は成田東です。戦後に南阿佐ヶ谷駅の近くに出て、それから上井草。私は阿佐ヶ谷で育ちました。
——どういう経過を辿ったのですか?
髙橋 もともとは祖父が、麻布の二の橋で洋家具の製造をやっていまして、それが昭和4年の世界恐慌の時に製作所が潰れたんです。それで、父親は学校に行かせてもらえなくなり、御木本真珠店の工場が内幸町にあり、そこだったら紹介できるという人がいて、父親は学校を辞めてミキモトに入ったんです。
——それが宝石業への道のきっかけですね。
髙橋 そうです。麻布十番の自宅も失くしたわけですから。当時ミキモトの工場は全寮制だったので、昔で言う食い扶持が一人助かるからね(笑)よかった。不況の真っ只中で、2〜3人採用するのに100人以上が来てね。父親はコネもあったから入社できたんです。それから3年後に、今度は次男が兄貴と一緒にミキモトで仕事したいということで、工場長に聞いたら、お前の弟だったら即採用だと言われて…入れてもらえてね。
——ということは、長男の方が見込まれていたということですね。
髙橋 その頃、ミキモトの中に宮内省の仕事を受けている御調度班というのがあって、これに属して仕事の全部を受けられる職人はミキモトの中では別格なんですが、それに父親は選ばれていたんです。若手で大したものだったんです。これには周りの人たちからの妬みがあったらしいです。
——そうでしょうね。
髙橋 父親は戦争で出兵して、一度戻ってきたけれどまた征って合計で9年間、20歳から29歳まで戦場に行っていたと言ってましたね。
——それでもご無事で…。
上井草に工房を作り、
31歳で事実上の社長に
——世界のミキモトでいろいろと経験を積んで…。
髙橋 ミキモトはパールで有名ですが広く宝石もやっていましたので経験を生かして、戦後すぐ独立させてもらい、成田東に工房を作りました。それが創業ですね。昭和58年に私が上井草に工房を新築しましたが、その時、父は脳梗塞を起こしていたので、私が社長の代理でね。それが31歳の時でした。
——お父様の技術を受け継ぐということもあるでしょうけど、事実上の社長を引き継がれ、どんなでした?
髙橋 父親は、ミキモトの職人としてずっと細工をやってきて、私はデザインとか企画です。そこではお店というより工房でしたね。顧客に販売はしていませんでした。大手のブランドとか卸屋さんの下請けで、作るだけだったんです。
——世界の一流ブランドの手直しもこちらでやっているとか…。
髙橋 そうです。メンテナンスという形でやっています。検品、鑑定もです。外国ブランドは、いちいち本国の工房に送り返すわけにはいきませんからね。
——すごいことですね。
髙橋 どこのブランドかは言えないんです。口外してはならないという契約があるからね。数社と契約しています。
デザインの勉強のため
イギリス留学
——宝飾はデザインは重要ですね。
髙橋 ミキモトでは図案課と言っていましたが、いろんなデザインのことを意匠といっていました。私は、工業デザインを学んだ後、25歳の時にイギリスに行かせてもらったんです。ロンドンの美大のジュエリー科で約3年学びました。あと1年というところでオイルショックが起こって。宝飾品が全く売れなくなりました。
——あの時はパニックで、みなさん毎日の暮らしを考えることで…ね。
髙橋 日本ではトイレットペーパーが無くなったと大騒ぎしていましたよね。ロンドンでは砂糖が無くなって。イギリスから砂糖が無くなったら大変なことになると、そんな時代でした。
——髙橋さんにも、その波が?
髙橋 そうです。ロンドンも当時は暗い時代でした。仕送りが止まって急遽、一旦休学してでも帰ってこいと言われましたね。けれど、私は、まっすぐ帰りたくなかった。たまたまロンドンで知り合った日本人の友人と陸路で帰ろうと、日本まで数ヵ月、ロンドンを出発してパリに行って、イタリア、ギリシャ、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、タイ、香港、台湾を経由して東京に帰ってきたんです。昭和50年の春でした。
留学先からの帰国途中で、
奥様との出会い
——いい経験を積んだことにもなりましたね。危険はなかったですか?
髙橋 かなり厳しい時代だったけど、いい時代でもありました。アフガニスタンにソ連が介入したのは私が帰国して2年後でしたし、イランでは、パーレビ国王が健在で平和な時でした。その後、ホメイニさんが出てきて古いイスラム社会に戻したわけです。カンボジアではクメールの革命があり、だから私が旅をした時はいい時代だったんですね。危険はありましたよ。アフガニスタンの国境では山賊が出たりね(笑)。
——その頃に、奥様との出会いですか?
髙橋 妻とは、その時のバンコクで知り合いました(笑)。
——ロマンですね(笑)。やはりジュエリーがらみですか?
髙橋 いいえ、その時はジュエリーとかは関係なくて…。二人ともヒッピーでした。妻もインドや東南アジアを旅行中でした。
——普通では得られない経験ができたんですね。
髙橋 日本にはまだ帰りたくなかったし、休学したものの又戻れるかも不安でしたね。飛行機で帰ればすぐなんですが陸路ですからね。貧乏旅行でお金は無かったけどその土地の宝飾品を見てこれました。イスタンブールのトプカピとか、アフガニスタンの遺跡とか。でもアルカイダがあの遺跡を破壊してしまったのはびっくりしましたね。
——それでも、日本に帰ってきてお父様の商売を引き継いでですね。
髙橋 イギリスでは王室を支える職人がいて、業界の伝統もあり、いいデザインの勉強ができましたね。有名宝石店やダンヒルでもアルバイトをしました。
——その経験から自分を発展させる絶好のチャンスですね。
髙橋 そうです。父親もそういう意味では皇室の仕事をやっていましたから。私もいろいろ手伝いましたね。
——社長は、デザインばかりでなく技術的な作業もされるんですか?
髙橋 父親からデザインだけというのは片手落ちだと言われていましたから。装身具製作技能士というのは東京都からもらうんですが、私は美濃部さんの頃取りました。本当は1級を取らなければならないんですが、最低でも2級は取れと。検定審査委員をやっていた父親から言われてね(笑)。自分の息子が1級を取らないというんで非常に不機嫌でしたね(笑)。だからその時期に、デザインをやるって海外に出て行ったんです。言い訳ですが…。
図案を描いて、作って、売る
父の夢を実現
——店に技術はすでにあるから、そこでデザインに力をいれて現在への道に?
髙橋 父親がよく言っていました。自分は作る方をやってきて、それなりに自分の技術を弟子に伝えてきたから、あとは図案が描けて、自分で作って、自分で販売できたらいいとね、この夢を私に託したんじゃないかと思うんです。12年前に、ここに店を出したのは父親と自分の夢の実現だなあと。
——そうですか。
髙橋 留学中に父親がロンドンとパリに来たんですよ。(写真を見せながら、パリのバンドーム広場の前の写真)こういう宝石屋ができたらいいな、なんて言ってましたね。これが1972年の4月。それから約30年かかってやっと自分と父親の夢がここで実現したんです。ただ宝石を並べて宝石を売れば宝石屋さんではないのです。
——そうでしょうね。
髙橋 宝石業界は、自分で作って売っているのは当時はミキモトとタサキぐらい。あとは海外のブランドで、自社で開発製造して世界中に供給していました。消費税導入までは宝石屋は業者証明が必要だったんですが、今は誰でもできます。だから宝石はどこから買うんじゃなくて、誰から買うのかが大切になりました。信用ですね。
お客様から話を聞いて作る
=カスタムリテーリング
髙橋 うちは、ブランドとか大手小売り屋さんのようにはいかないので、カスタムリテーリングといって、お客様から直に希望をお聞きし、店の中でお作りしていくという方法をとっています。在庫を持たずにデザイン的なセンスと技術を売るわけです。
——いわゆるオーダーの店ですね。
髙橋 はい、オートクチュールです。うちは店に宝石を一つも飾っていないんです。
——それで最初、お店を外から見ただけでは、どういうお店かわからなかったわけですね(笑)。ところで、指輪は注文を受けて、どれくらいの日程でお手元に渡せるのですか?
髙橋 まず、お客様の希望をラフスケッチを描いて幾つか選んでもらいます。後はデザイン、制作。ご希望の石を何石か揃えてね。一緒にバンコックとか現地に行って選ぶこともあります。近い方は何度も来ていただくこともあります。遠い方はネットで画像を見ていただくことも。だから出来上がった時にお客様がこれ全然イメージと違うといったことはありませんね。デザインも石も決まってから大体1カ月ぐらいです。指輪の枠は作ることができますが、貴石は自分で作れませんから。石の形、色などご希望のものを全部探すのは大変なことなんです。
——石の情報はどこから?
高橋 そうですね。例えば、ベルギーだとかイスラエル、ニューヨーク、香港なんかとコネクションがあります。
——よく行かれるんですか?
髙橋 行くとなると年3回くらいかな。今は全部行かずに手元に4〜5日あれば届きます。色石は、バンコックを中心に。ダイヤモンドは、アントワープ、テルアビブ、ニューヨークが多いですね。
宝飾のリメイクも大切な仕事
——お客様の注文の中には、デザインを古いのから新しくしたいということも多いのでは?
髙橋 リメイクですね。いろいろお話を伺いながら、大体の形はできますね。どうしてリメイクされたいのですか?というところから…。派手だとか、時代に合うものにしたいとか。親から譲り受けたけど何とかならないかとかあって。
——デザインが見えてくる。
髙橋 はい、お話をして、その人の洋服の趣味とか、好みのブランドとかでね。それと、どんなシーンでお使いになるのかということで。その人の一番使い勝手のいいところを探します。ずっと付けていたいという方の場合は、少し台を低くして当たらないようにしてデイリーに使えるようにしてあげるとか。大体基本的な方向性が出ますからね。あとは、お客様のライフスタイルによっても考えます。
——希望をかなえるって、いいですね。
宝石は贈った人のメッセージ
髙橋 宝石は、贈った人のメッセージがそこにこもっています。二代、三代と続くんですよね。そういう意味で、人生の隠し味的な存在です。仕入れた商品を計算機を叩きながらする商売よりも、宝石の思い出を聞きながら、その人の思いを組み取り、仕上げて、いかにお客さんに喜んでいただけるか。そこに醍醐味があります。お客様に夢と満足、感動を与え続けるという私どもの企業理念の一つでもあります。
——宝石についての見方…変わっていますか?
髙橋 宝石自体の位置づけが変わってきましたね。若い人たちの必要なものは婚約とか結婚指輪とかですからね。欲しいではなくて必要かどうかです。人生の節目で奥さんにご主人からプレゼントするとか、そういう習慣が少しずつ定着していますが、欧米ほどじゃないですね。
——そうですか。
髙橋 年を重ねて奥さんが宝石箱を見た時に、この指輪は主人が長男が生まれた時にくれたものとか、子育てが終わってご苦労さんでもらったとか、ご主人が定年退職の記念に買ってくれたとか、そういった人生の節目節目でしっかりしたものがあればね、うれしいでしょうし、衝動買いなんかでつまらないものを買わないですみますよね。
——そうでしょうね。
髙橋 刻まれたメッセージが大事なんですね。彼からもらった指輪を見てその時を思い出して、という、一つ一つストーリーとヒストリーがあってこそですね。色が抜けたとか、劣化したりとかはないですからね。
——顧客の獲得は、キャリアの積み重ねということですか。
髙橋 それと、口コミは大切ですね。
——皆さん、自分の店を探してますよね。
髙橋 一時期みたいに、誰もが宝石ということではないんで、今は宝石の好きな人は宝石、絵画の好きな人は絵画、それから物ではなくて海外旅行をしたり、自分で文化的なことを学びたいとか多様化しています。誰もが宝石という時代は終わって、好きな人やマニアに絞られてきました。そうした中で、幸いにウチにはうわさを聞いて全国から来ていただいております。
——ところでジロンジュエリーという名前の由来をお聞きしたいですが…。
髙橋 それは、父親の名前が髙橋二郎だからなんです。ミキモトに兄弟がいて、そのほかに髙橋さんが何人もいたので、皆さん名前で呼ばれていました。だから伝票も二郎で来るんです。紛らわしいので、私がジローにしたらと言ったんですが、ジローはいやだと父親は言ってね。
——どうして、いい名なのに。
髙橋 それが、当時「ごめんねジロー」という歌が流行っていて(笑)。歌謡番組で歌っているとテレビ消せというくらい。自分のことを言われているみたいでいやだったんでしょうね。それもあって、JIROにNをつけてJIRON、ジロンにしたわけです。そんな感じで父親もやっと納得してくれてね。
——そうだったんですか。ネーミングは大切ですよね。
旧青梅街道をオシャレな
ストリートにしたい
——話は変わりますけど、現在のところに店を移して、店作りの一方では、通りに対する想いがあるのでは?
髙橋 そうです。うちの前の通りが旧青梅街道で歴史的にも伝統のある通りですね。ここは、もっとオシャレな商店街になるといいなと思っています。今改装している向かいの店が「ギャラリー萠」という画廊になるんで期待してます。四つ星のフレンチレストランもある。これから、ポツポツとブティックとかカフェなんかも出てくるといいですね。落ち着いたショッピングの通りとしてね。言いたくはないけど、単なるにぎやかな飲み屋街ではね。
——そういういい発展ですね。この通りは、昔は都電の発着停留所があって荻窪の中心的存在でしたから、それなりにね。
髙橋 ここをゆったりと散歩ができる通りにしたいですね。駅から太田黒公園や荻外荘に行ったり、角川庭園に行くにも、この通りを歩きたいと思う雰囲気が作れるといいですね。
——いいですね。
髙橋 西郊ロッヂングや太田黒公園に行くのに近いからと裏を斜めに行くよりも、この通りを散策してオシャレなカフェでお茶をしてとなるといいなと思います。ここは人によっては通称アメックス通りと呼んでいますね。
——そういえば、今の太田黒の前の通り、環八に神明通りまでの通り名、ペットネームを募集しています (右ご案内頁参照)。親しまれる通りになるための一歩として、併せてここも名前が決まれば、いい形になるでしょうね。
趣味のガーデニングは
インスピレーションやモチーフの源
——業績を伸ばしながら余暇は趣味?
髙橋 アウトドアやフライフィッシングをやっています。健康のためにはジム通いですね。みなかみ町でガーデニングもやっています。それらがみんなデザインをする上でのインスピレーションやモチーフになっています。
——上井草の頃から工房を持ち事業を始めると、地域のボランティアを求められたり求めたりがあるのでは?
髙橋 当然ありましたけど、有名ブランド店の下請けを主とした工房ですから、あまり地域との関連を感じなくて、例えば荻窪法人会に誘われて会員になりましたが、それだけのことでした。
地域貢献にも積極的に参加
——それが今では、地域貢献として、いろいろされていますね?
髙橋 はい。荻窪駅南口に店を開いてからです。やはりエンドユーザー、つまりお客様との接点ができてからですね。荻窪法人会では第24支部長として地域のために力になりたいと考えるようになりました。街に花を、などのプランを提案して実行するなどね。商工会杉並支部商業副分科会長としては、荻窪にも外国から観光客を呼ぶ、インバウンド戦略を練っているところです。銀座、浅草、新宿など都心ばかりでなくてね。少し都心を離れた文化の街としてですね。
——自分の位置づけを考えると、そういう風になりますよね。
髙橋 そう言えば、私の住まいは善福寺の池の近くにありますが、今、杉並区が上池と下池を結ぶ水路を親水公園にしました。
——あれは七月にオープンするんでしょう。以前はホタルを育てたところですね。
髙橋 そうです。そこで子どもたちに安全に魚や水中昆虫、水辺の植物に親しんでもらおうとするもので、工事が終わって現在、低木や芝生を入れて養生してますので、もうすぐ開園です。ここは遅の井川という名がついていて区が管理してますが、夢の水路として、きれいな水を汲み上げて小川として流すんです。清潔で安全。池の水は小川の下を暗渠で下池に流すという仕組みです。
——ここにも何か関わりを?
髙橋 子どもたちの意見と希望が区に聞き入れられ、実行委員会を作り、これからは区と実行委員会のメンバーが管理することになり、今それをやっています。
宝飾業界の仕事をして50年、創業75年になりました。歴史と技術を守りながら地域と業界の皆さんのお役に立ちたいと考えています。