庭園造りが仕事だけれど…。
これからは、緑の楽しみ方を伝えたい

箱根植木株式会社
代表取締役社長 和 田  新 也 氏

——まず、お聞きしたいのは、気になる箱根植木という社名なんですが…。
和田 よく聞かれます。箱根って名前ですね。箱根という地名を連想しますけど、東京が発祥なんです。ウチは先代が興した会社で、実家が箱根屋という小田原の造り醤油屋だったんです。この仕事を昭和28年に始めて、その屋号をとって箱根植木としたんです。
——そうでしたか。植木屋さんをはじめたんですね。

植物好きの先代は
実は南洋で農園をやりたかった

和田 工事屋です。造園工事業ですね。植木屋というと土地を持っている方も多いですが(笑)、もってないので、花とお庭ということで造園屋を始めたんです。花の方は、今ははこねフローリストとして約40年前に分社して、別会社でやっています。
——そうですか。それにしても造園で、これだけの会社に大きくするということはすごいことですね。
和田 父は植物が好きで、デザイン(設計)よりも植物自体に興味があり、もともと南の地で農園をやりたかったようです。戦前、戦中のことですが、南方での農園経営を志していたんですが、学校を出る頃に戦争に負けたのでで、南方に行けなくなった。それで造園をやることになったということです。1970年代にはパラグアイで植林事業をはじめました、地球環境の視点に立って。向こうは森林をすべて伐採して畑にしていました。
——焼畑ですね。
和田 そうすると、土壌の流出とかさまざまな環境の変化が起こってきます。そういう一年生作物ではなくて、林業としてやれば、形態は変わりますが、森を残すことができて、経済も成り立つという、パイロット事業ですね。
——ブラジル辺りは今、どんどん伐採していて、そういうことを考えて取り組んでいるようですね。
和田 その歯止め、ということで始めたんですが、やはり、なかなか経済との両立が難しくて…。
——あれは国がやってませんか?
和田 そうではなくて、自社が林業としてやったプロジェクトです。日本でも林業が苦戦していますが、当時パラグアイでは林業というコンセプトがなかったんです。材木は森にあるいい木を切ってくる、という認識しかなかったのです。

斉藤勝雄先生らとの出会いが
日本庭園を得意とする会社に

——最初はどういったものを手掛けたんですか?
和田 国鉄の庭でした。たまたま設計競争、今で言うコンペをやっていたときに、技術顧問のいい先生方がついてくださっていたので、当時の国鉄の公舎などもやらせていただきました。
——いきなり、いいお得意さんですね。
和田 (笑)はい。日本庭園で有名な斎藤勝雄先生が技術顧問になってくださって、造園設計の草分け的存在の吉村巌先生などの先生方に助けていただきながら、ここまでこれたんです。職人の方も斎藤先生配下の職人の方々でやらせていただきました。
——ほんとうに、いい先生に出会えましたね。
和田 そういうことなんです。自分自身の才能というよりも、そういった方々に助けていただいて…。
——会社は、人の関係というのは大きいですね。
和田 そうですね。父は最初から日本庭園ということがしっかりあったようです。会社には得意というのがあるでしょう。ウチの歴史は65年ですが、日本庭園を得意とした会社でした。
——日本庭園は都内でもたくさんありますけど、東京で確立したのはすごいですね。ほかに造園を手がけるところも多かったのでは?当時は、他には会社はなかったんですか?
和田 そうですね。植木屋さんはあったんですが、会社形式のところはまだ少なかったので、そういった意味では新しかったのかもしれませんね。法人化して最初から工事屋として始めましたから。
——仕事の内容ですが、たとえば造園として歴史的には飛鳥山の桜、ああいう大規模なことも含めて造園なんでしょう?
和田 そうです。基本的には造園は工事です。植物を移植したり植木農家の方が作ったものを購入して、お庭の空間づくりをします。1本1本の木も大切ですが、空間全体をきれいにするという。
——景色として考えるんですね。
和田 はい、景観の創出です。

大学は金属工学科を専攻も
造園科に入り直して

——才能があったから、ついてくれたんじゃないですか?それで、二代目を継がれたのはどういったタイミングだったんですか?
和田 私が会社に入ったのは、28歳の時です。私は、造園に関係のない早稲田の金属工学科を出たんですが…。
——まあ、植物に関係のないところ、硬い感じですね(笑)。
和田 それから転向しまして、金属より緑の方がいいと(笑)。アメリカのミシガン州立大学の造園科に入り直して、卒業させていただいて、そして日本に戻ってきて造園設計事務所に2年間いて、それから当社に入りました。
——28歳は、張り切れる年ですね。
和田 そうですね。まだ体力はありますし(笑)。
——体力がないと気力がね。
和田 そうです。両方ですね。

大田黒公園や昭和記念公園の
日本庭園を手がける

——今までかなり、国内でも広くいろいろやって実績を積んで、杉並区では大田黒公園も手掛けてますね。
和田 大田黒は当社ともう一社、区外の会社とで造りました。大田黒は日本庭園ですね。逆に日本庭園を造ったというのは、公園もそうなんですが、民間のお宅が当時は日本的なのが多かったですね。残念なことに取り壊されてしまったりしてますがね。大きなお屋敷が相続で売りに出されて、分断されてみんな小さくなって…。分譲され壊されてしまうんですね。蚕糸の森公園などは公園として当社が日本庭園ではありませんがやってます。
——昭和記念公園とか大規模なものもされましたね。
和田 あそこの日本庭園をやらせてもらいました。あの程度の規模ですと、どちらかというと監督を出して、現場のコーディネーター役をしています。いつもお願いしている親方のところに頼んで工事をします。この親方はこれが得意だとか、街路樹が得意なところや、石組みが得意な方もいらっしゃってさまざまです。植物はすべて買ってきます。
——実際に全国に買い付けに行くんですか。
和田 大事な木は行って見るケースが多いです。構造的にシステムができているので、商社的にやってくださっているところにお願いして発注します。ただ、海外はシステムがないので、全部自分でやらなくてはいけない。電話一本でできない世界で、石も探しにいくし。最低でも2週間はかかっちゃう。植木もいいのがあるかわからないし、ひたすら走り回るんです(笑)。
——世界の中でお仕事をされて、全国的には、箱根植木さんはトップの企業ですね?
和田 いえいえ、大手の中には入りますが、決して規模的に一番大きいわけではありません。

海外で多い
日本庭園の仕事

和田 あとは、日本庭園が得意ということで、海外の仕事があります。海外は物件が多いんですよ。
——そうですか?海外というと、どんなところからの発注ですか?
和田 一番初めはアメリカのカリフォルニアのお金持ちの家のお庭でした。あとは、スイスジュネーブのWHOの日本庭園、その辺が始まりです。実績ができてきますと、問い合わせが増えて、依頼が増えてきました。私が入る前のことですが、海外は、多い方でしたね。
——世界は広いから、いくらでも仕事が生まれてくるでしょうね?
和田 ただ、風習から何からすべて違いますから、約束事を全部守ってくれるわけではないので。

現地の植物を使って
日本庭園を造る

——約束事ってなんですか?
和田 買う約束をした樹木が入ってこないとか、予定の順番と違う材料が来て、工程がむちゃくちゃになってしまって。また、植物から全く違いますからね。エジプトでも造りましたけど、日本から植物を持って行くわけでなくて、ほとんど現地の植物を使います。
——それで、日本庭園の特徴をだすということですか?
和田 そこが面白いところですね。形と造成と…。植物なんかは、日本からコピペで持って行ってはいけないもので。現地の物を使う、石も現地の物を使って、やります。せいぜい灯篭などを日本から持って行くだけです。あとはすべて基本的には現地調達です。日本庭園は、その自然との調和を表現したところにあるんでしょうね。
——難しいところですね。
和田 びっくりしたのは、タイのチェンマイで造った庭園です。竹垣だけは日本で作っていって他は全部現地の物で造ったのに、審査会があってその審査委員長が言ってくれたのは、ゲートを入ったとたんに、そこは日本だったと言ってくださったんです。
——それは、いい言葉ですね。
和田 分かっていただけるのかと、我々もやや不安な部分はあったんですけどね。わかってくれてるんだなと思いました。そういうことでは欧米に、岡倉天心はじめ日本の心を広めて下さった先人たちがいて、ありがたいなと、つくづく思います。我々はある程度、砂利道だろうが道ができているところに行っているだけですから。何にもないところに最初に持って行った方は大変だったろうと思います。彼らの努力があってこそ、日本庭園というものが受け入れられて、そうやってオランダ人の審査委員長もパッと見た瞬間に、「ああ、日本だ」と感じてくださって。そういった方々が世界中にたくさんいらっしゃるということは大変ありがたいことです。

海外では庭園づくりは
芸術と考えられている

——日本だ、アメリカだという理屈ではなくて、センス的に日本を感じるということは、すごいことですよね。
和田 ありがたいと思います。
——分野は違うけど、ゴッホが浮世絵を受け入れたようなものでしょう?良さをストレートに理解してもらえたということは、御社がそれだけのものを持っていたということでしょうね。
和田 そういうことでしょうね。そういったキャパを持っていなければならないものですから。感性とはありがたいものだと思います。我々は今、偉そうに日本庭園はいいだろうとか、日本の造園技術はすごいだろうという上から目線で言っていますが、実はそれをわかってくれる方が、もっとえらい事なんですね。
——そう思いますね。
和田 それには感謝してやらなくてはいけないと思いますね。スイスに行った時は、これは民間のオフィスに造ったんですが、ある時、日本庭園は本当にいいものだと思ってくださっているそこの社長と工程の話をしていたんです。工期が非常にきつかったので、工期をもう少しくれないかと言ったら、「芸術家はぺインターと同様に毎日毎日描いているわけじゃなくて、描きたくないときもあるでしょう、だから工期はいいですよ」と、言われたときは、こちらが感動しました。
——仕事を芸術として見て下さった。
和田 そうです。芸術家になっちゃって…。日本だったら工期とにらめっこしながら、やっていますから。その社長は実際、作業に入っている時には、普通は声をかけなくて、それでも、はっと気がつくと社長が作業を観ていて、これはどうなんですか?と質問をする。職人の仕事を大切にしてくださるのは本当にありがたい。

東京での庭園は
寝返りの打てるスペースづくり?

——和田社長自身は現場へは?
和田 私は半端人足というやつで、多少は現場もやりましたけど(笑)、交渉とかマネージメントが主な仕事です。日本では日本庭園のプロジェクトというよりもホテルの庭や公共工事で、植栽などは北海道から沖縄までのプロジェクトはやらせてもらっています。
——大手町のあるホテルでしたが、経営的に危ないと言われながら大改修して、息を吹き返すぐらいにいい庭園ができたということを聞いた覚えあります。少しでも居住区を広げるというホテルの常識なのに、庭園を作ったことが成功したと、ホテルの人が言ってました。人間というのは、そういったゆとりが欲しいですね。
和田 そうだと思います。多分、寝返りを打てるスペースというものかもしれませんね。寝返りを打てなくても死にはしませんけどね(笑)。ちょっと広ければ寝返り打てるじゃないですか。それが快適。庭園は寝返りを打てるスペースかもしれませんね。生きていくためには必要だということでしょうか。

これから街路樹植え替えの
時期がやってくる!

——それは、街並みを考えることにも通じていますね。
和田 街並みといえば街路樹ですけど、お庭の松の手入れですと、一日1本やってという造園の世界ですけど税金使ってますので、ある程度の早さで安全になおかつきれいにとなる。これは業界全体として、役所と打合せをしながら技術的な面も含めて進めています。またどのタイミングで植え替えなくてはいけないのか、危険木になってもいけないとか、当社だけではなく業界として行政と相談しながらやって行かなければなりません。
——役所の理解というのはやっぱり人によるんじゃないですか?
和田 大きいですね。特に技術的なところは、試しにこれ取り入れてみようかという場合でも、そういうことをするのは面倒くさいわけで、「やっぱりそうだよね」と言ってくださる方がゼロだと何にも始まらないですね。
——役所ですものね。
和田 役所の技術屋さんは、事務屋さんの契約とかそういったところに持っていって、こういった形で試しにやってみたいと言っても、こんなの…と言われちゃうケースもあって大変だと思います。
——技術が絡むと、そうでしょうね。
和田 技術的に無茶苦茶なことをやられると苦情がきますし、役所の方も実際困ってしまうわけで。安全管理の問題や、よくあるぶつ切りにしてひどすぎるとか…。普通の契約制度だと安ければ契約が取れちゃうんです。
——街の表情というか、街路樹によって街の景観は変わりますね。だから樹を選ぶということになりますね。青梅街道が昭和6年ぐらいから広がったわけですけど、そのとき駅周辺の街路樹は桜を予定したけど駄目になり、今のトウカエデが植えられたんですね。理由は、桜は広がるので道路の交通のじゃまになるということのようです。トウカエデは強い木ということですが、季節を感じる日本人には桜がいいと皆さん思うでしょけどね。昔は荻窪の各家、街角に必ずと言えるほど桜はあったけど、今、一本もなくなってしまった。マンションにするとね。
和田 特に巨木は面積を使いますね。
——それが、いま、株立ち作りを流行らせてきてるんでしょうね。
和田 ここは多摩川上水だったんで、桜並木ですよ。川にはいいですよね。今も一部では残っていますが。
——街路樹は植え替え時期が難しいでしょう?一斉にだめになったら大変ですね。
和田 それぞれの自治体は悩みながら考えているでしょうね。本当は安全のため植え替えしたいという場所もあるのでしょうが、ただ街の方が、この樹は絶対切らせないということもあるんで。やはり命あるものですし。
——住民のパワーは自治体も相当手をやくでしょうね。勝手に切れない?
和田 法的には切れても、市民の意見を聞くというのがベースでしょうから。民有地でもそうですから。民間の土地でも、マンションを建てるので切ろうとしたら大騒ぎになってしまう。残してくれと。松葉社長は海外なんか、よく行かれますか?
——前はよく行っていましたが、今は行かなくなりましたね。
和田 海外の中心地でも緑はすごいですね。東京の緑というのは相当いいですけどね。街路樹にしてもそれなりにきれいにしてあるし。

街路樹に対する日本人の思い

——外国は、大きいスパンでものを考えていますね。日本はそうではない。これはパリに留学に行ってた人の話なんですが、昔の下宿の家に行って、マロニエのなつかしの並木を見ようと窓を開けたら、なくなっていたというんです。びっくりして下宿のおばさんに昔はいい並木があったですねと言ったら、「いや、マロニエはもう寿命がきて次の木が植わっているでしょう」と、見るとマロニエの幼木が昔の通り植えられていた。その話を聞いたときに、ある時の切り替える決断があるんだなと思いました。
和田 そうですね。
——日本では、その場合、一生懸命持たせようとするだけだったり
和田 周りの人が切るなと怒ってるとか。今は樹木診断というのがありまして、樹木医が危険かどうかを判断して、危険だったら更新しましょう、これはもうちょっとこういう形で持たせてみましょうという判断ができるようになってきました。。
——一斉に植え替えるというのは可能なんですか?
和田 可能ですが、ただじゃ済まないでしょうね(笑)。いずれはしなくてはいけないですけどね。でもパリは、すごいですね。やると言ったらやっちゃうんですね。

これからは、緑の大切さを
伝えていきたい

——会社として将来、どういう展開を考えていらっしゃいますか?
和田 われわれは、今まで庭を作るということが専門で、それからメンテナンスをやって育むということを大事にして両輪でやってますが、これからは緑の大切さをいかにうまく伝えていくかということが、われわれの仕事になっていくのかなと思っています。以前は、それこそ大名だったり、旦那衆といった目利きの方々が、作りたいものを具現化して喜んでいただけるものを作ってきたんですが、これからは、市民の方々と一緒に、お互いに勉強し合いながらワークショップやったり、緑ってこうなんですよ、こういう空間でこういった楽しみ方がありますよということを伝えながら、緑の良さをどんどん盛り上げていく。伝えて行くことが重要なんだろうと考えています。
——そうですね。とくに荻窪は緑豊かな住宅都市を目標とされていますが、荻窪らしさもほしいですね。昔の荻窪、井荻村は、野菜類もそうですが、薪の産地として江戸市中へ薪を供給してきた。その結果、株立ちという風景が見られました。今マンションなどの玄関口などにかなり株立ち作りが取り入れられてますね。
和田 あのソフトな感じがいいですね。もっと荻窪の街づくりに取り入れていきたいと思いますが、公共部分でも、広くなくてもいい、所有者は一戸一戸バラバラでも通りを見たときに何となくまとまって、きれいだなというのでもいいですね。街並みとしても価値が上がると思います。それこそ、名所旧跡に行ってというのでなくてもね。
——そう、そういう風景は心なぐさめますね。
和田 インバウンドの観点でも、普通の日本人がどう生きているのか、そういう空間を見せる場として杉並は最高ですよね。静かな観光といいますか、そんな生活しているんだという。わかっていただけるような形もですね。
——これからの杉並区に、そういう景観を広めるのもひとつですね。オリンピックもあるし、日本を見に来る外国人が増えてますから。

地元の明るい社会づくり、
人間の意識を自然の世界に向けていく

——和田さんは、ずっと杉並にお住まいですか?
和田 ずっと杉並でした。中央道ができるときに、半分土地を取られたので、今は住居は世田谷区ですが。小学校は富士見ヶ丘小学校で、こちらで育ちました。良かったですよ。昔は。あの辺は牛もいましたし(笑)。長閑でしたね。
——和田さんのお庭は、立派な日本庭園なんでしょう?
和田 いや、チョロチョロっとありますが。うちの若いものが面白がって、いろんなものを植えて混乱してます(笑)。
——モデル庭園になるとかは?
和田 いえいえ。本来はそうあるべきなんでしょうけどね(笑)。
——和田さんの一日はどんなですか?
和田 8時半ぐらいに会社に来て、メールのチェックなんかして、そして、商工会議所ですとか、業界のいろんな会議です。後は決済、書類等。私はあてにされていないというか、営業は、ひとすら、頭を下げて(笑)。言われるままに歩き回っています。
——社会貢献的なことも求められるでしょう?
和田 そうですね。たいそうなことは何もしていませんけど、商工会議所や、明るい社会作り関係とか、業界とか、地元の何とかは多いですね。さまざまな地元のお手伝いとか、緑の団体のお手伝いとか…。地域や業界の一助になれば有難いと思っています。
——社長のご趣味は?
和田 ゴルフです。
——ゴルフ場関係の仕事はあるんでしょう?
和田 バブルが弾けて多くの造園業者がゴルフ場の仕事で痛手を負いました。うちはゴルフ場全体というよりも、庭が得意だったので、クラブハウス周りの庭をやってくれという話が多く、何億でなくて、数百万円の額の仕事しかなくて、大きな痛手は受けませんでした。
——特技を活かすということは、生き延びるコツですね。
和田 これからは、先程も言ったように、伝える努力をどうやってうまくしていくかですね。今までは、例えば、区に環境教育の一コマを頂いて、環境教育をしたりもしました。いわゆるバーチャルの世界に浸りきっている子どもたちを、いかに自然の世界、つまりリアルの世界に引き戻すかというのは、我々造園屋の使命の一つかもしれない。
——そうですね。
和田 ということで、二子玉川のライズ等でもさまざま、イベントやワークショップなど、植物観察などうちの社員がやっています。あと家庭菜園の指導なども引き続きこれからもやっていくと思います。これからは子どもだけでなく、大人の教育もやっていかなくてはならない。一緒に勉強していくということです。要は、勉強といっても、緑の楽しみ方ですね。わかっていただけるように。それが大事かなと思います。