撮影:松葉襄

その1・「荻窪風土記」誕生の話


荻窪に帰る電車に乗ると、詩人の竹下彦一さんは、それを待っていたかのように、「松葉君、荻窪にも地域の皆さんが楽しく集う会をつくろうじゃないか」と、話を切り出した。それは、「カルヴァドスの会」の例会の帰りのことだった。
 この会は、竹下さん提案でできた、中央線沿線在住を主とした文化人の集まる会で、紀伊国屋書店の社長田辺茂一社長を会長に多士済々有名人が名を連らねていた。その日も、西荻窪の「こけしや」を会場に、意気あいあい、お互いにお酒を酌み交わし歌を歌い口角泡を飛ばした楽しい時間を持ったのだ。
 電車は、すぐに荻窪駅に着いたので、「会の名前を考えておくから、後日、電話をします。また会いましょう」と言うことで別れた。
 それから数日を待たず、「これから井伏さんに会いに行きましょう」という電話に、駅で待ち合わせて井伏さんのお宅に向かった。途中、「会の名前は、三つの神の会でどうだろう、事務局は荻窪百点、会長は井伏鱒二さん」と、竹下さんは構想を話す。
 井伏さんに会って、世間話の中にその話をしたが、会長の件は、そういう公的なことは一切お断りと、井伏さんは、あっさりと流して、お酒の席になってしまった。
 会長は、仕方なく提案者の竹下彦一さんということで始まったのが、「三つの神の会」であった。バッカス、ミューズ、ビーナスの三つの神をあがめてというユーモアを解する地元の交流会である。
 この荻窪の会は、開業したばかりの東信閣を会場ということで、織茂章則社長の協力を得てスタートした。
 地元の方たちも含め、一六〇人ほど参加して盛会だった。会長をあれほどお願いしても固辞した井伏さんだったが、ニコニコと参加して来られたのにはビックリ。以降、毎回ご出席され、会場の皆さんとお酒を飲み、話しの輪の中にいて楽しまれている様子に、何かほっとした。
何回目かの例会のとき、皆さんとの談笑の合間に、私は井伏さんに、
「お願いがあるんですが…。荻窪のことを何か、書いてくださいませんか」と、そっと言って、もう少し、説明が必要かなと思ったが、その間を置くことなく、井伏さんは、
「君のほかに、荻窪のことを話してくれる人を紹介してくれないか」との返事が、即、返ってきた。
 そこで頭に浮かんだのは、私も発起人だった杉並郷土史会の森泰樹会長と宇田川太一さんらの地元の古老と言われる人たちだった。
 もちろん、この時点では「荻窪風土記」の名前はなかった。
 何回目の例会のとき、それが連載されることになる月刊新潮の番記者、岩波剛さんが、「お宅に伺ったら、先生はここに行っておられると聞いて急いで来ました。先生は通常、こういう皆さんの集まる席にはお出にならないのに…不思議ですね…」と、井伏さんが楽しくされている様子を大変に驚いていた。
 紹介した荻窪の人たちの話が全てではなかったが、まもなく、「荻窪風土記」と言う題名で連載され、箱入りの単行本で上梓され、文庫本になって広く全国的に読まれることになった。
「荻窪風土記」が出てしばらくして、住みよいまちということについて考えていた私は、「まちに関わる文学賞を始めたいので、井伏さんの名前を使わせて…」と、遠慮なくお願いすると、井伏さんは、にっこりと笑ってくれた。荻窪の街のためにも、この大賞が実現できたらと願うのだが…。

写真・文 松葉襄

「三つの神の会」の井伏さんを囲んで、右隣が新潮社の番記者岩波剛さん、右後ろが若き日の松葉編集長