
井伏さんは、大変なお酒好き。よく荻窪の街に出かけては飲んでいる。その様子は、荻窪風土記の「後家横丁」などからうかがい知ることができる。
「井伏さんの一番好きな店は?」と、あるとき、お聞きしたことがあった。
普段は、そんなことには笑って応えないことが多いのに、なぜか、そのときは「若蔦かな」と言われた。
そういえば昔、「小料理若蔦」と小さく書かれた表札のあるこの店に、ふと立ち寄ったことがあった。暖簾を分けて中に入ると狭い店で、奥に3畳の小部屋があり、サラリーマン達が陽気にのんで騒いでいた。手前には、5人も座ればいっぱいのLの字のカウンターがあるが、その左隅にひとり静かに手酌で飲んでいる井伏さんの姿が目に入った。奥の座敷の戯言を聞いているのか聞いていないのか、気にしないのか、とにかく黙って杯を傾けていた。ここで作品の構想を練っているのか、頭を休めているかの様でもあったのかはともかく、女将と話すわけでもなく。
この若蔦は、戦後すぐに出来た第一国際マーケットといわれた一番新宿よりの闇市、後に、飲み屋さん街となった内にあった。4坪程度の小さな店で、この頃から井伏さんは通ったようだ。当時としておしゃれなバーが立ち並び、何軒かの小粋な小料理店が安っぽい飲み屋に混じってあった。バーには毎日のように「流し」が来て、お客の望む歌の伴奏をしてにぎやかに日銭を稼いでいた。今のカラオケである。「流し」の中には、よく目にしたのは、まだ売れないころの、あの遠藤実さんもいた。
若蔦はというと静かな雰囲気で、そこが井伏さんのお気に入りというわけだ。ということもあるが、何と言っても、女将が井伏さんの気心を知ってか余計な口を利かないところが、井伏さんにとって居心地がよかったと言えそうだ。
この一角がビル化され、今のインテグラルタワーとなるのだが、その時、若蔦も、そこを立ち退いて荻窪駅北口前に移転。そこも広場用地なので、間もなく閉店した。
写真・文 松葉襄