
「マル秘」井伏鱒二さんの思い出 その4・井伏さんの「荻窪の将棋会」
井伏さんの将棋好きは、魚釣り好きに並んで皆さんによく知られるところであるが、文士の仲間の阿佐ヶ谷会は、井伏さんにとっては、まさに将棋会であった。
「早稲田からの帰り道、あそこで皆が別れるので、なんとなく、そこが、仲間の集まりやすかったこともあってね」と井伏さんは言う。
井伏さんにとって、将棋を指すことは生活の一部であり、三度の食事より好きだったと言えそうだ。だから、相手がいれば何時でもどうぞということになる。
そこで阿佐ヶ谷では「将棋会」の名で、文士仲間の星取表をつくっての熱の入れようとなった。そんな様子を文章のネタとして書かれ。語られ、会の名が知られるところとなったが、井伏さんにとって気の置けない仲間の将棋会は荻窪にあった。
作品が新聞に連載されるようになり、作家として名が世に知られるようになっても、相変わらずの将棋好き、暇を作っては日課とするほど。それから言うと、それこそ何時でもいいという荻窪の、それも気の置けない仲間が、どんなにか有難かっただろうか。
ひとりは新本燦根さん、新聞連載の最初から挿絵を描いた人。そしてレコード屋の新星堂の専務、大竹次郎さんで、ご近所のよしみで、三人は集まっては将棋を指した。
面白いことに、この三人が仲間内で、お互いに何かの先生をしたことだ。井伏さんは将棋、新本燦根さんは絵、大竹さんは音楽という具合にだ。若いときから井伏さんは絵が好きで一時はその学校を目指したぐらいで絵心があったのだが、大竹さんは油絵の個展を開くまでの腕前になった。この仲間が最後まで続いたのは、このように将棋だけではなく仲間がよかったのかもしれない。それでも、その頃の井伏さんは、もっぱら将棋が中心で、私もその勝負を何度か観戦した。
とにかく、いつでもという荻窪での将棋は、ますます井伏さんの生活の一部となっていった。それでも会として名前をつけることはなかった。そういうことはわずらわしかったのであろう。
