
「マル秘」井伏鱒二さんの思い出 その7・十五時間かけて撮った?井伏さんの写真
三時五分前に、井伏さんの門のベルを押した。「どうぞ」とインターフォンの節代夫人の声。玄関まで行くと扉が開いて、いつもの優しい顔を覗かせ、「お待ちしてました」と、先客と入れ替わるように書斎に通された。
待つ事しばし、卓に着く井伏さんに、早速に用件をと思うが、今日は何か様子が変だ。というより、「あの時はね、君…」と井伏さんは話し始めたのだ。
この日は、あらかじめ電話で約束をして井伏さんの写真を撮りに伺ったのだ。急いで撮ってすぐに帰ろうと思って来たのだが、時間は過ぎ、話は続く。
一時間ほどしただろうか、話を中断して、おもむろに、「ところで、君、今日は何の用だったかね…」と。「今日は写真を…」。
前もって、お願いしてあったのにと、内心思いながらカメラを取り出すと、井伏さんは、「どうすればいいのかなぁ。こんなのでは」とポーズをとってくれた。さらに私の注文で幾つかのポーズに変えていただきながら、写真は、ほんの十五分ほどで済ませた。いいカットが撮れたので、ほっとしてお礼を言って帰ろうとしたが、また、なんだか変だ。
「まあ、ゆっくりしていきなさい」と。
なんと、節代夫人が、そそくさと…、用意をしてあったようで、お酒と山海の珍味が出てきた。
ああ、少し時間がかかるなぁ…と思ったが…。
それからが長い話になった。「伊豆の渓流に釣り行ったんだ。生憎の土砂ぶりになったんで、行きつけの宿に行って時間をつぶそうとしたね。生憎、亭主が留守だったんで、待たしてもらうよと言ったら、女中さんに薄暗い布団部屋に通されてね。やがて、亭主が帰ってきてかわいそうなほど恐縮して…。汚い身なりだったしね」。そんな貴重な話が、次々と続くが、帰ろうと思っている私の頭には残らなかった。後になって、もったいない事と思った。
テーブルに対に向かいあって、井伏さんは、ゆったりと構えてマイペースで杯を傾ける。この辺で失礼してと思うが切り出すタイミングが見当たらない。相変わらず杯を傾け、なお話はすすむ。私は、飲めないながらのお付き合いで、チビリチビリと。井伏さん、さすが強い。
私は、いつの間にか、うとうととしたらしく、節代夫人に起こされ、「お宅のお電話番号を教えてくださいまし」と。ワケがわからないまま自宅の番号を言うと、向こうで電話をかけている様子。聞こえてくる声には、「ご主人様は、今日は、こちらにお泊りになります」と。「???」。
夜中の十二時を過ぎようとしていた。
夫人は、また、お酒と珍味をテーブルに置くと、「私はこれで…。どうぞ、ごゆっくり。おやすみなさい」と、ふすまを閉めていかれた。残された井伏さんと私の二人は、相変わらず対に座って、なにを話していたか何を話すでもなく。井伏さんは、泰然自若として、相変わらずチビリチビリと杯を重ねている。
「もし…もし、もし」と節代夫人に起こされて、気が付くと眠ってしまっていたようだ。もうあたりが明るくなっていた。
当時、珍しかった冷酒をお土産に頂き、「失礼しました」とお礼を申し上げて帰路についたのは、明けて六時であった。
写真・文 松葉襄