碧雲荘
その1・太宰治が荻窪で過ごした下宿群
唯一残された あの、「碧雲荘」が売りに出た!

「碧雲荘が売り出されたのを知ってますか?」と、電話の声。あまりにも突然のことで私は声を失った。
「えっ、それは本当の話ですか?」と思わず聞くと、
「私は、荻窪百点の読者ですが、いつも碧雲荘の前を通っています。今、いつものように見ていたら看板にそう書いてありましたよ」と言う。
 念を押すと、確かに書いてあるという。
常日頃から「碧雲荘」の保存をいい、記事にもしていたので、知らせてくれたのだった。私は、すぐ確かめに行くからと電話の主に待ってくれるように頼んだが、これから杉並区郷土博物館分館に展覧会を見に行くので待つことを渋った。「それでは、とりあえず、館の人に、それを伝えて置いてください」と頼んだ。これが杉並区役所を初めとして広く知られることへの第一歩となった。
 私は、荻窪のよみうりカルチャーセンターの歴史散歩で講師として「碧雲荘」の案内には「建物は杉並区が取得して保存を!」と加えて話してきた。それがその後、意外な転換になるとは、その時は想像もできなかった。
 急いで確認と自分への納得のために行くと、「移築希望の方連絡下さい。田中豊作建築の山越・田中家は約八十年、天沼にあります。太宰治さんに部屋を貸していたこともあります。田中利枝子」と無造作に手書きされたボードが、たしかに玄関先と垣根に掲示されていた。しかし、なぜか翌日には入口から家の周りにビニールテープが張られ無断立ち入りを禁じた。それはその後、杉並区とは譲渡対象としない話合いも応じないことになるが、それを示唆しているかのように思えた。せめて建物の記録を残そうと言う研究者の調査の申し出までも拒んだ。
 すべて遺産相続によって碧雲荘の所有者となったハワイ在住の娘さん田中利枝子さんの意思だった。
 太宰治が、荻窪で過ごした唯一残る下宿屋「碧雲荘」(天沼)は、杉並区にとっても大切な文化遺産。そのまま残してほしいと言う要望は、太宰治に思いを寄せる荻窪の人たちの間に以前からあり、私もその一人として、所有者の田中さんのおばあさんに会うたびに、その事を話してきたが、「私の目の黒いうちは絶対にダメ」と、にこやかな中にもきっぱりと言う。誰が行っても交渉の余地はなかった。しかし、今度は、下宿屋「壁雲荘」を残す最後のチャンスと思えた。
 「碧雲荘」を残そうという思いの人やグループは一斉に動いた。中でも、大きく動いたのは急遽新たに結成した「荻窪の歴史文化を守る会」であった。署名運動をして田中杉並区長に届けたり、太宰サミットを杉並公会堂大ホールで催したり、一方では建物保存についても各種試案をも作成した。地元町会でも残そうとしたが全て先が見えなかった。
 結果、「碧雲荘」を荻窪に残せなかった最大の理由は、田中利枝子さんの「建物の無い敷地を売る」事にあり、さらには、「あの建物は、私のおじいちゃんが建て、私が暮らしてきた家。文化遺産なんか関係ない」につきた。そのために建物を除去し土地を売ることが最優先されたことにあり、文化遺産より「建物を持って行って下さい。差し上げます」となったのだった。
 しかし、建物を移築するにも土地が区内どころか近郊にもなかった。太宰の大フアンである芥川賞受賞作家又吉直樹さんからは建物を引き取り作家活動の拠点にする申し出もあった。移設候補に上がった弁天池公園やそのほかの土地も「碧雲荘」が木造建築のために消防法に定める敷地の広さがとれないなど条件がどれも整わず断念。検討されたどれもが可能性がなくなってしまった。唯一残された方法は、ちょうど、広い隣地に福祉施設計画をすすめている杉並区が購入し、たとえ建物の一部でも現地に残すことに望をかけた。しかし、杉並区は土地を購入しても、施設(後に区が土地を取得し現・ウエルファーム)の全体計画は変えられず、最後は、跡地に「碧雲荘」のあった証の「案内板」をかろうじて設置されるにとどまった。
 紆余曲折の中、「碧雲荘」がたどり着いたのは、九州・大分県湯布院に移築することであった。「おやど・二本の葦束」の女将・橋本律子さんの「文学を通じた人の出会いを紡ぐ拠点になればいい」との思いから建物を引き取り移築保存したいとの申し出があったからだ。譲渡が決まっても残念なことがあった。女将の思いとは別に、移築後に「碧雲荘」の名を使わないという田中利枝子さんの条件の要望があったからだ。
 2017年4月17日、「碧雲荘」は「ゆふいん文学の森」としてオープンした。
式典では、招待された田中良杉並区長は、「杉並区としてできなかった壁雲荘の保存が、湯布院に建物の面影を残して再現できたことは何よりです。移築に尽力された橋本律子様および関係者の皆様に心から感謝申し上げます。そして、これをきっかけにお互いの交流を深めて行きたいと思います」と挨拶をした。
 杉並区では「案内板」を設置したが特別なイベントをする事はなかった。それはともかく、文化のまちといわれている杉並区の文化財に対する今後の取り組みを考えさせられた事だった。

「荻窪百点」取材ノートから
郷土史家・荻窪百点編集長
松葉 襄