その2・井伏鱒二を師と仰いで荻窪に
太宰治が過ごした下宿跡をめぐる

井伏鱒二を師と仰ぎ、慕って上京した太宰治。落ち着いたのは荻窪の下宿。転々と転居した下宿はいずれも、井伏鱒二宅の周り

▼昭和8年(1933)2月〜5月
 飛島定城氏宅に寄宿 本天沼2・15

津島修治は、小説家を志し、師と仰ぐ井伏鱒二を慕って荻窪へ来て、頼ったのは兄・圭治と親友の間柄の「東京日日新聞」記者・飛島定城氏であった。住まいは、荻窪駅から徒歩20分ほどの本天沼2丁目、天沼稲荷の鳥居の右を入って右奥辺り。飛島家の離れに内縁の妻・小山初代と住んだ。太宰は、東京帝国大学学生の24歳だった。
 同年2月、「海豹通信」第4便に掲載された「田舎者」に初めて「太宰治」の筆名を使っている。3月には「海豹」創刊号に発表した「魚服記」により新進作家として注目されることになった。

▼昭和8年5月〜昭和10年7月
 天沼3丁目の駅前 天沼3・3

 荻窪駅から遠いこともあって、便利な駅前に転居する。現在のドンキホーテ荻窪店の脇を入った辺りで、区の北駐輪場の手前左前、鳶の飯田初穂さん宅があった辺りと飯田さんから聞く。1階の3間は飛島家が、2階の2間を大宰夫妻が使って暮らした。ここからものの2分とかからない桐の木横丁と呼ばれた所には、ムーランルージュ座付作家として大活躍の高崎鵜平(後に伊馬春部と改名)が住んでいた。太宰は友として、よく会っている。
 荻窪は、津島修治が作家太宰治として歩み始めた地であり、初めて、太宰治の筆名で短編「列車」を発表した。言い換えると、作家・太宰治は荻窪で生まれたと言えそうだ。
 この頃の太宰は、荻窪駅開業当時から駅南口前に待合茶屋として営業する蕎麦の稲葉屋に良く出かけたという。上がりかまちに肩肘立てた例のポーズで一人酒を飲む姿をよく見かけたと、井伏鱒二は著書「荻窪風土記」に書いている。

▼昭和11年11月〜
照山荘アパートに 上荻2・18

 第一創作集「晩年」を刊行し作家の道を歩み始めた太宰であった。しかし、10月にパビナール中毒で篠原病院に入院。完治し退院後に、井伏節代夫人と初代が見つけてきた光明院裏手の照山荘アパートに入居する。ところが太宰は気にいらず、たったの3日ほどで出る。そこは、今は明るい環境だが、当時は墓地に隣接した、太宰には耐えられなかったと推測する。ここの路地角のお宅には大きな桜の木があって、荻窪の開花期には、不思議に必ず他より1週間早く咲くので有名だった。

▼昭和11年11月〜昭和12年6月
 碧雲荘 天沼3・19

 ここで、代表作「人間失格」の元と言われる「HUMAn LOST」や「富嶽百景」を執筆。ここは、太宰が下宿した唯一残された建物であったが、ここを相続で持ち主となったハワイ在住の娘田中利枝子さんは、「建物は移築する条件で差し上げます」と、希望者を募集。太宰に思いを寄せて「碧雲荘」荻窪に保存を願う人たちの思いもむなしく、建物は九州大分県の伊布院の旅館「二本の葦束」の女将が譲り受け、移築された。

▼昭和12年6月〜昭和13年9月
 鎌滝さん宅 天沼3・12

 荻窪での最後の下宿先となった。
 鎌滝家は7部屋ほどを貸部屋にしていて、太宰は2階の4畳半を借りた。ここでは太宰作品を愛好する文学青年が入り浸り、太宰は独身の気安さからか不規則な生活に。そして故郷からの仕送りの大半は彼らとの飲食に消えていった。鎌滝さんは天皇の台所を預かった人。それに理由があるのかは分からないが、奥様は下宿をした事を最後まで悔やんで語らずじまい。太宰はここでは小説を書いていない。下宿にこもり、新しい表現方法、新しい文学観を模索して、荻窪での青春の彷徨にピリオドを打ったとされている。

 その後、昭和13年9月、太宰は井伏鱒二の勧めで鎌滝家を引き払い、井伏の滞在する。山梨県御坂峠の天下茶屋へ「思いを新たにする覚悟」で向かう。井伏鱒二の媒酌で石原美智子と結婚。以降に三鷹に居を移し、次々と作品を生み出した。。玉川上水に入水自殺と言う劇的な最期となるが、ここでの暮らしは太宰にとって平静な期間であった。