その3・大学ノートに書かれた
「山崎富栄の日記」報道各社の争奪戦
なぜ、太宰治は自殺したのか?
富栄の日記で、その理由を知る?
昭和五十三年頃からだったと思うが、朝日新聞社の若き記者がたびたび当編集部に顔を出した。何のご縁かはっきりした覚えがないが、荻窪団地近くに住む、吉田さんという彼のお姉さんが占いの人で荻窪百点に「生まれ月の運勢」を連載していたからだろう。
何でも取材記者とかで、いつも手振り身振りで楽しい、面白い話をして聞かせてくれて、女性スタッフの人気者だった。そこで、お願いしたのが「窓」という当誌の連載コラム欄の執筆だった。
話はいつもコラムに仕上がってきた。あるとき話し出したのは、「戦後の孤児」の話だった。当時、上野駅地下道には空襲で家を焼け出され親のいない戦争孤児たちが大勢いて、自分は孤児と共に地下道に寝食を共にして記事にしたという。それが空前の大ヒット。たちまち掲載紙は売り切れ、増刷を重ねたことを聞かせてくれた。
「泣きの永井」と社内でも有名になってから、更に伝説的なヒットとなったのが、「山崎富栄の日記」。大学ノートに書かれた日記は、太宰治自殺に伴って、報道各社の争奪戦の展開となった。
その時のことを永井さんは、荻窪百点(95号)の「窓」に、次のように書いている。
★★窓★★
太宰治の顔 永井萠二
冷酒をのみすぎ、二日酔いで頭が痛む朝、妻はきまって、さげすむようにいう。「いい年して、少しは体のことを考えてたら…」
「太宰の顔」というのは、文豪のそれではなく、“太宰の情死寸前の顔”という意味なのである。
もう三十年も昔、わたしは週刊朝日の駆けだし記者として、あの情死事件に遭遇した。後の名編集長扇谷正造氏から、「いっしょに死んだ山崎富栄は太宰治に捧げる日記を六冊のノートにつづっているそうだ。それを絶対に入手して来い」といわれ、三鷹に駆けつけたのだが、すでに日記のことは各新聞、雑誌社に知れ、記者の間で壮絶な争奪戦が始まっていた。わたしは富栄の姉さんに泣きつき、そのノートがお父さんのカバンのなかにあることを知った。
土砂降りのなかを、玉川上水の娘の入水現場の辺りを歩いているお父さんにすがりつき、
「ノートを貸していただきたい」
わたしは哀願した。が、お父さんの返事は「ノートはきょう焼くつもりだ」という。そこでわたしは、
「もしも……、もしも、そのノートを貸していただけないなら、わたしもこの上水にとびこむ」
とカサを投げすてた。そんなことをして手に入れた手記で埋まった週刊朝日は全国で発売四時間で売り切れてしまった。
いま太宰の血をうけた二人の女流作家、津島佑子さんと大田治子さんの活躍が目ざましい。
事件当時、ふたりはまだ一歳の赤ちゃんだった。
太宰が死ぬ少し前、わたしは三鷹のこれが流行作家の家かとおどろくほど雨もりのする陋屋で、佑子ちゃんをあやしたことがある。
また事件直後たずねた小田原市の山の中の家で、お母さんの静子さんに抱かれた治子さんも、あやしたおぼえがある。
この頃、わたしは、日本酒からワインにきりかえ、静かな酔いのなかで、佑子さんと治子さんの活躍に拍手を送り、いまさらのように歳月の流れの早さに、おどろいている。
(日本ペンクラブ会報委員)