撮影:松葉襄

その4・「井伏鱒二の弔辞」

 一九四八年六月十三日の深夜に、太宰治は愛人の山崎富栄と玉川上水に入水した。当時の玉川上水は水量が多く、丸く侵食された川底は赤土でぬめり、誰であれ這い上がろうとしても不可能な状態であった。
 二人の遺体が発見されたのは十九日。二十日に通夜、その翌日に告別式が行われた。

 弔 辞  井 伏 鱒 二          
 (1948年6月21日 太宰家にて)

 太宰君は自分で絶えず悩みを生み出して自分で苦しんでいた人だと私は思います。四十才で生涯を終わったが、生み出した悩みの量は自分でも計り知ることが出来なかったでしょう。ちょうどそれは、たとえば岡の麓の泉の深さは計り知り得るが湧き出る水の量は計り知れないのと同じことでしょう。しかし元来が幅のせまい人間の私は、ただ君の才能に敬服していましたので、はらはらさせられながらも君は悩みを突破して行けるものと思っておりました。しかしもう及ばない。私の愚かであったために、君は手まといを感じていたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥じ入ります。左様なら。

 太宰の情死については、前記の争奪戦を含めいろいろな情報をもって、新聞やラジオを連日にぎわせた。
「週刊朝日」は、一九四八年七月四日号の特集に誌面のほとんど全てを使った。タイトルは、「愛慕としのびよる死——太宰治に捧げる富栄の日記」であった。この号は他に、「嘆きの美知子未亡人」や「斜陽のモデル太田静子の言い分」などのコラムを添えて、太宰治特集となった。
 編集部の前書きには「私たちは太宰氏の情死に必ずしも共感するものではない。然しここにいろいろな意味で人の胸を打つもの、考えさせるものをたたえている」と添え、そして、山崎富栄が「いま何万という数知れぬ戦争未亡人である」ことや「太宰—山崎—太田静子(斜陽のモデル))という複雑な愛情関係」などを例にあげている。
この「週刊朝日」は、前記のように、発売四時間で売り切った。空前の大ヒットであった。
 その理由は、太宰が売りに売れた流行作家であったことにあったが、さらには、山崎富栄が戦争未亡人であったことにもよると言われている。戦争が終わって未だ二、三年の当時、多くの戦争未亡人は、社会問題となっていたことも底辺にあったようだ。