
その5・「太宰治を想う」
太宰には生涯師と仰ぎ私生活でも関わりの深かった井伏鱒二をはじめ、数多くの先輩作家、門弟、文学仲間、同郷の友人など幅広い交流があった。文筆に携わる彼らは太宰の死後太宰を思い、書き様々な形で発表した。本書はそれらを一堂にまとめたものだ。今見れば著名な作家達、太宰と面識のない作家までが書いており、それによってこれまで知られていない様々な角度からの太宰治が浮かび上がってくる。それらの中から印象的な言葉を抜粋した。 (久慈博子)
▽文芸の完遂 檀一雄
「新潮」1949年7月号
太宰の死は、四十年の歳月の永きに亙って、企図され、仮構され、誘導されていった彼の生、つまる処彼の文芸が、終局に於いて彼を招くものであった。太宰の完遂しなければならない文芸が、太宰の身を喰うたのである。
▽刃渡りの果 伊馬春部
「文藝時代」1948年8月号
なにかあわただしく、雨ばかりに明暮れた感じの六月—その尽くる日、早くも街頭には、「人間失格第二回」の文字を浮き出した展望七月号が並んでいた。白い表紙にコバルト色のその意匠には、すがすがしい季節感がみちていて、私は地下鉄道のフォームで不覚にも泪をこぼした。「太宰治」という文字を見つめていて、くやしさにどっと襲われたのだ。その次には莫迦野郎と思った。
なぜ生きていなかったのだ。死ぬことはないじゃないか。こうして作品だけが、初夏の街頭にいきいきと踊り出ているなんて、あまりに悲しいことではないか。
▽太宰治先生に 田中英光
「東北文学」1948年8月号
頽廃作家、ニヒリスト、実存主義者、肉体作家。あなたの上に、いろいろなレッテルを貼るのは、みんな嘘だ。あなたは、(誰よりも民衆を愛し、そして憎んだ)あなたは、太宰治文学というものを、少なくとも、日本文学史上に残して死なれたと思います。
けれども、(自殺されないのが、いちばんよかった。ぼくは歴史の手で殺される日まで長生きして、死んでから、お逢いして、再び、例の大笑いを、あなたとの間に、笑いたいと思います)
▽友人相和す思い 林芙美子
「文藝時代」1949年7月号
太宰さんは、私には甘ったれるほど甘ったれた人である。私もまたそれを許していた。夜は怖くて一人では歩けないような話をきくと、正気でそんな事を云ってるのかしらと思ったりもしたが、あの位淋しい淋しいの言葉を吐気出すように云いつづける人は珍しい。中々の毒舌家ではあったが、根の心をなすものはまことに気弱わなガラスのようにもろい感じの人であった。
▽太宰治と私 丹羽文雄
「暖流」1948年9月号
彼の死体が上がる前日、私ははじめて太宰の家へおくやみにいった。聞いてはいたがあまりにもひどい家なので、びっくりした。太宰には稿料や印税がはいっていないならともかくも、奥さんは、魂から青ざめた人のように青い顔をしていた。奥さんはきちんと両手をつき、今度の騒ぎで人さまに迷惑をかけたことを、くりかえしてわびた。併せて平常のことまでも云々された。しっかりと落着いていた。私は、感動をうけた。三鷹の人々は、一人のこらずこの奥さんに同情している。太宰はこの平凡な常識的な解釈をふみにじっている。
▽太宰治の思い出 亀井勝一郎
「新潮」1948年6月号
太宰君は、私にとっては極めてユーモラスな、明るい友人であった。
時々途方もない空想的計画を抱いて、我々を面白がせることがある。その一つ。或る時に彼曰く、自分は自殺したふりをして暫く身を隠す。すると先輩や友人や批評家どもは、様々の思い出や悪口をかくにちがいねえ。味方のような顔をしていた奴が敵であったかもしれぬ。急に友人づらをする奴もあるだろう。自分はそのときノコノコ出てきて、「死後の評価」を残らず読んでやる。というのだ。こんな意味の冗談を言ったものだが、そうであってほしい。様々の事情から、今度の死は疑えぬようだが、こんな冗談が明るい一点の光となって、なお私の心にゆらいでいるのである。
▽太宰治との一日 豊島与志雄
「八雲」1948年7月号
私たちは残りのウイスキーを飲みはじめた。女手は女中一人きりなので、さっちゃん(注・山崎富栄の愛称)がまたなにかと立ち働く。そこへ、八雲から亀島君がやって来、筑摩の白井君もまた立ち寄った。暫くして、太宰は皆に護られて帰っていった。背広に重たそうな兵隊靴、元気な様子はしているが、後姿になにか疲れが見える。疲れよりも、憂鬱な影が見える。
それきり、私は太宰に逢わなかった。逢ったのは彼の死体にだ。—死は、彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに、最後までさっちゃんが付き添っていてくれたことを、私はむしろ嬉しく思う。