常にお客様を大切にする「東信だからこそ」を目指す
荻窪の将来を見据えた展望を胸に

東信水産株式会社
代表取締役会長 織 茂  章 則 氏

荻窪の魚屋といえば、昔「魚信」、今「東信水産」。荻窪を代表する、歴史ある一流店にまで拡大・発展させた織茂章則会長に、秘められたエピソードの数々を明かしていただきました。ユーモアの精神も兼ね備えた敏腕経営者のお話です。

始まりは街の魚屋さん「魚信」から
創業者の織茂信博氏

——御社は、荻窪に一商店として営業を始め、あっという間に東京どころか日本一といわれる業績を伸ばしましたね。
荻窪には業績を伸ばすお店がいろいろありましたが、御社の創業者織茂信博さんはその出世頭のトップといわれ、法人化して今に続いています。創業にまつわるエピソードからお話ください。
織茂 私の父が創業者ですが、学校も小学校の半ばでやめ、魚屋の小僧に出て、そこからが、当社の始まりと言えます。魚屋への道一筋です。新興マーケット(後のタウンセブン)のオビゲンと言う会社の魚屋担当でした。
ところが、オビケンさんがもう仕事全部やめちゃうということで、お店を「おまえに売ってやる」と言われて買うことになりました。その頃で売値は500万円だったそうです。
——その時で500万円。すごい金額ですねぇ!!
織茂 そうです。当時としては大変な金額でしたから。それをおふくろがいろんな銀行を回って断られた中で、今のりそな銀行、当時の協和銀行の支店長さんが「わかった!」と、親父を呼んできちっと話を聞いてくれて。その頃の支店長は、自分の裁断があったんです。こいつには貸そうと思ったんでしょう。
——見込まれたんですね。
織茂 それで貸してくれて、店を買うことが出来たんです。そういうこともあって、メインバンクは今もりそな銀行さんなんです。
——それで独立できたんですね。
織茂 エピソードが一つあるんです。その時、僕はもう生まれていて、こんな大金は一生倅が持つことなんかできないだろうからと、用意できた5千円札を一旦風呂敷に包んで僕に背負わせたんです。当時は一万円札はなかったから。そして、もし立ったら買おう、立てなかったらやめようと、いうことだったらしいです(笑)。
——幾つぐらいのときでした?

築地で仕入れ時にセリ場で使用していた帽子。社長室に大切に飾られていた。

織茂 よちよち歩きの頃です。それが立って、ばぁーっと走った。それで、よし買おう、ということになったそうなんです(笑)。
——いい話ですね。それで、今も会社を背負って立っているし…(笑)。
織茂 今は倅が社長で背負って立っているから…。そんなエピソードがあって、2坪かそこらのスペースから店は始まったんです。それが昭和28年の頃です。

街中に親しまれた「魚信」
初代の商才と気配り、そして…
タウンセブン地下1階の東信水産荻窪総本店

——当時は創業者の名前、信博から魚屋の信(のぶ)さんで名が通り、店名も「魚信」(うおのぶ)と呼ばれて親しまれましたね。
織茂 未だにお年寄りから、信さんの倅だろう?って言われますよ(笑)。
——創業社長のすごいところで、私が見てて思ったことが一つあるんです。店頭に立って売ってる時、たとえば大きな樽に入ったイカを売っている、その周りには順番待ちのお客様がいっぱい。そんな時、その一人に売りながら次のお客様の目を見て合図をしているんです。売ってお金を貰う時にはさらに次の人に順番を目で知らせているんですね。で、いくら混んでいても順番を間違わないので、みなさん安心して待っている。それもイカを見ないで大小同じ量に選んで渡す。渡すときは次の人を見ている。大混雑でしたが、天才的でしたね。
織茂 接客対応ですね。それは小僧のときからずっと。次から次へと人をさばくにはそうやっていかないとお客様から不満がね。
——商売の基本ということでしょうけど、それにしても、待つ人のための気配りは並外れたすごい人って思いました。しかも樽のイカを見ないで大小混ぜて平均に渡せるんですから…。それと、最初は屋敷町に御用聞きで回って大変な人気があった。人柄ですね。
織茂 あの当時で、魚屋は茶道とか謡とか、そういうのを全部親方の方から勉強させられたんです。詩吟の筑前とかという号を持っていますよ。
——名前までもらって教養を身につけた。すごいことですね。
織茂 そういうもんだったんでしょう。そうやって御用聞きといえども、お客様のところへ行って話のお相手や受け答えできるようにしていたんでしょうね。
——荻窪の街らしい話ですね。当時は品物を出せば売れる時代にです。そうしてお客さんの心をつかむというか。
織茂 そういうことだったんでしょうね。丁寧で親切に、街中に愛されていく。
——人は見ていないようで見ていますね。ちゃんとした人か、そうでない人か。私にも丁寧で親切に話してくれて恐縮しましたね。
織茂 そうでしょうね。誰でも必ずきちんと挨拶するところを見て、私も偉いなあと思いました。
——だから、商売というだけでなく「魚信さん」と親しまれたんでしょうね。商売の背景にはそういうことがありますね。
織茂 そういうことですね。それは社員全員ですることでしょう。
——逆に、大きく成長した企業で、これだけの会社にいるんだという目線で話をする社員もいますね。
織茂 中には、そういう人もいるでしょうね。当社で言えば、例えば、いま有名な百貨店に出店して大きくなった。社員にとってはそれは当たり前のようなことだと思われたりしますが、大変だったんですよ。社内でも、私がそういうことを、なかなか話す機会がなかったのもありますけど、それはもっと指導しなくてはいけないんでしょうね。
——そうですね。そこには会社の歴史を知るということは大切なことですね。これだけの大きな会社になった中で、そうした大切さを知るために。
織茂 親父の才覚のすばらしかったことは、当時の東光ストアに出店したことです。この経験こそが、支店展開のスタートでした。その経験があったからこそ、今の会社の形態が出来上がったと思います。

船乗りになりたかった父は
アメリカ留学を喜んだ

——今の話は、もう少し詳しく後でお聞きしたいと思います。ところで、会長ご自身が海外へ留学された話ですが…。
織茂 テキサスのヒューストンに8年ぐらい。専攻は抽象数学です。今は全然忘れちゃいましたが(笑)。
——仕事とは全く関係のない勉強?
織茂 それですが、実は、親父が海軍だったんですよ。魚屋に奉公に出ていましたが、19歳で海軍に志願したんですね。何で海軍に志願したのかと聞くと、海軍だといろんな国へ行ける可能性があるからと言ってました。本当は船乗りになりたかったんです。いろんな国に行けるわけですからね。じゃあ、海軍に入ったから世界を周れたかというと、そうなりませんでしたがね(笑)。そういう夢を持っていたから、私がちょこっと海外留学と言ったら、「行け、行け」と許してくれましたね。
——良かったですね。
織茂 ありがたいなと思います。
——あの頃は、海外に行く人は少なかったですね。
織茂 そうですよ。1ドル360円の時代でしたからね。その頃、ちょうど全学連の学生運動があったものだから、アカになっちゃこまる、だから、それよりかは、海外の大学に行かせたほうがいいという気持ちもあったんでしょうか(笑)。

2坪の店舗で
名物のザルのシーンが話題に
新興マーケットの店頭風景。名物・お釣り用のザルがたくさん。

——ところで東信水産といえば、有名だったのが、ザルですよね。
織茂 ああ、それは2坪のお店を買って、しばらくしてお店が軌道に乗った頃の話です。小さいときから、私は店を手伝っていたけど。
——そうですか。
織茂 昔、新興商店街ができたときは平屋のバラック作りでハモニカ横丁でしたが、その頃になると2階を建て増してそこにみんな寝泊まりしていたんです。うちはそれを止めて、若い人たちの食堂みたいに作ったんです。商売が忙しくなってきて、つり銭の両替が売りながらでは大変。それで、その2階を両替所にしたんです。
——そこで有名なシーンが生まれたんですね。
織茂 そうです。売り場にザルを吊るしておいてつり銭を用意するんだけど、大きい札のお釣銭は、2階から竹竿の先に挟んで売り場に下ろすんです。五千円とか1万円が来るとね。そうこうしているとザルがいっぱいになる。2階に上げて、大きなデスクに、だーっとこうやって。
——大きなデスクにあける?(笑)。大変ですね。ザルの風景は荻窪の名物になりましたものね(笑)。
織茂 百円玉をお前全部揃えろ、と言われて手伝いましたね。
——いい思い出ですね。
織茂 そうそう。その後、エアシューターで両替したりしましたが、やっぱりザルの方が早い。今のタウンセブンはレジ払いになって、大体キャッシュなんか触れないもの。みんな電子決済ですしね。

思い切った会社改革
グアムへ社員旅行に行った時の記念写真

——アメリカから帰って来たのは?
織茂 1979年です。27歳の時でした。帰って来て驚いたのは、会社がゴタゴタしていたことです。親父は、亡くなる前は、体力が衰えていたためコントロールが効かず、そういうことから親父の妹の旦那さんや従兄弟など親戚の者たちが社内で好き勝手に振る舞っていたんです。他の社員たちは、彼らに一応は頭を下げてはいるんですが、内心は面白くなかったでしょうね。で、私は現場に出ていましてね。年末の繁忙期は本社の駐車場でタイを2万匹焼いたりしたのもその頃です。
親父は、大手百貨店などを回って、根回しなどをしていましたが、急に親父が亡くなったので、名ばかりの本部長や専務たちが、そうした大事な相手先の重役たちの対応をしなければなくなったわけです。それで、電話では「それでは、何時にお待ちしています」なんて約束してるんですけど、いざその時になると逃げちゃうんです。そうすると私は、営業課長でしたからお相手することになって…。あちら様も「まあ、社長の息子に会える方がいい」っておっしゃってくださり、事なきを得たんですけど。
——帰国してから大変なお家騒動になったんですね。それで会社改革で思い切ったメスを入れて、病巣をとった。それがあったから、今があるんですね。

東信水産全店から店長が一堂に介しての店長会議

織茂 取締役の進退は、株主総会で決定されるのですが、株主を集めた総会をしたことがなかったので、株主総会の開催から着手して、退任してもらうまでに3年かかりました。
——大変でしたね。外にも少しは噂として聞こえてきましたけど、そこまでとは…。
織茂 築地の方からは、親戚たちをカットするなんて、血も涙もない奴だと言われてね。
——外野から見ればね、そうでしょう。
織茂 父のときとは大違いだなんてひどいことを言われていましたね。ただ、若い築地の仲買さんたちは応援してくれました。また、親戚以外の幹部や社員たちは大いにやる気になってくれました。おかげさまでね。
——その時は、社員は何人ぐらいいらしたんですか?
織茂 その時は、すでに300人やそこらいたんじゃないですか?

いいものを売るという精神を
受け継いで大きくなった

織茂 親父のいいものを売る精神、いいものというのは活きの良さということ。今で言う、トレサビリティとコンプライアンスを重視し、守ることです。当時、牡蠣を仕入れると、製造年月日が、明後日だから、それが当たり前だった。だから製造年月日を正しく明記することを指導しました。
——重要ですよね。
織茂 ただ、牡蠣屋からは「東信さん、そんなことやったら、東信が潰れますよ」と言われて(笑)。
——そうですか。
織茂 中国産を日本産のように扱ったり、産地偽装ですよ。そういう事がへっちゃらだったんです。それを一つ一つ正すようにしていったんです。当時は韓国の物で、発がん性のある鮮度保持剤を使っていたり、抗生物質を使っていたり…。
——昔は、そう言われましたね。
織茂 とにかくうちは国産、近海、本物で行くぞと、それを徹底していきました。
——信用を作っていったんですね。それは、すごいことですよ。
織茂 その結果、苦情もなくなり、百貨店も受け入れてくれて、きちっとしたことをやる魚屋があるじゃないかということで、向こうの方から誘ってくれるようになったんです。トレサビリティとコンプライアンスが厳しくなっても我が社は何の問題もなかったです。
——そうやって、若くして社長となってから、今の東信水産へと築いてきたんですね。すごい。

ショッピングセンター店として唯一
東京都食品衛生自主管理認証をもつ
価値ある東京都食品衛生自主管理認証

織茂 タウンセブンの当社の本店の自慢していいところがあってね。すごいんですよ。社員たちが頑張ったんです。東京には、東京都食品衛生自主管理認証があって、2016年10月にこの制度の認証を本店が獲得したんです。東京都食品衛生マイスターです。これは、百貨店やスーパーなどの店舗の中で、認証を獲得しているのはタウンセブン内の当社の本店だけです。2017年の8月に更新審査にもパスしました。
——ビックリですね。
織茂 そうやっていいものを売ろうとして、そこまで到達できたことは私は胸を張りたいですね。
——そうでしょう。すばらしいことですね。
織茂 その写真を載せてね(笑)。
——いつも気になっていたんですよ。それが日本でここだけなんて…、すごいですね。
織茂 社長はタウンセブン以外のお店もチャレンジしたいようですが、なかなか大変なようです。
——タウンセブンでは、そういう関連工事ができたから?
織茂 僕が社長になってすぐに、食品衛生顧問をお招きし、会社を挙げて、長年にわたり社員たちと共に食品衛生の研鑽を積んできました。それが大きな要因だと思います。本店の社員たちがきちんとやってくれていたんだと感謝していますよ。

豊洲に移っても安全面は変わらない
むしろ良くなった環境

——この度、市場が築地から豊洲に移りました。東信水産の中心機能もそれによって荻窪からそちらに重点を移すことになりますか?
織茂 そんなことはありません。東信の発祥の地は荻窪ですし、本社、本店も荻窪ですから…。豊洲の近くの豊海には販売統括部、商事統括部、商品企画部のオフィスがあって、営業関係はこちらで対応しています。豊洲市場はオープン時、対応が後手に回るという報道が流れましたが、取引先の荷受けさんは勿論のこと、仲買さんたちは全社豊洲に移り、対応できています。
また、豊洲市場と築地市場との大きな違いは、豊洲は食品衛生管理や食品温度の管理などが目的の閉鎖型の施設だということです。※ハサップ(HACCP)の対応を目指す、最低限の環境は出来たと思います。後は、開けっぴろげの築地市場に慣れてしまっている方々に、豊洲の施設を使いこなせるための、指導、教育が必要であると思います。

※ハサップ「HACCP」とは、1960
年代に米国で宇宙食の安全性を確保
するために開発された食品の衛生管
理方式。hazard analysis critical
control point の頭文字からとったも
ので、「危害分析重要管理点」の略。

マグロの保護とサンゴ礁保護が重要

——話が変わりますが、マグロの問題が話題としていつも大きく取り上げられますが、業界としてどう見られますか。
織茂 マグロの保護対策としては、天然マグロを保護する意識を高める必要があります。例えば、30キロ未満の小型マグロ(若いマグロ)を販売しないなど、小売業者の団結が必要です。流通の川下から、消費者であるお客様と共に資源保護を訴える姿勢が大切です。
——そうですか。
織茂 もう一つ大きな問題があります。それは、サンゴ礁保護です。サンゴ礁には、海の中で最も多くの生物が集まり、生物生産量は高く、食料としての有料魚介類の75%が、サンゴ礁で育つのです。しかも、海そのものの浄化もしているのです。こうしたサンゴ礁が今、大きなダメージを受けているのです。

いま一番力を注いでいるのは
人材の育成
荻窪本社エントランス。働く環境にも配慮して

——東信水産として、そうした、いろんな考え方を反映させながら進んでいくでしょうけど、これから一番考えなくてはならないことは、何でしょうか?
織茂 会社としては、人材と社員の育成です。今、働き手が集まらないんです。少子化もありますしね。現実的に魚屋の技術を身につけようという人が大変少なくなりました。そこで、社長が考えたのは、人材を海外から求めることでした。
現在、10人のベトナム人技能実習生が工場で実習しています。昔の日本人のように大変熱心に、情熱をもって励んでいますよ。礼儀正しいですしね。2018年の2月から入社してもらっています。レポートは、すでに漢字を使って日本語で書いています。そうやって、きちんと東信の技術と考え方を教育していけば、素晴らしい技術者になりますよ。
——その人たち、国を代表した気分もあるんでしょうね。
織茂 そうですね。自国に帰ったら、魚ビジネスや日本食を扱おうと、そのために最高の技術を身につけようと、非常に熱心ですね。本来は、流通や小売業のシステム、接客対応の勉強も必要なんです。技能実習生が、そこまで勉強できるようにしたいですね。
——事業の展開として、これからどんな風に? 魚だけじゃなくなるとか…。
織茂 これも若社長の仕事なんですが、フィッシュオーダーという受発注のシステムを独自に開発しています。
——自社開発を始めるんですか?
織茂 もう導入して運用しています。築地の仲買さんも一緒です。私は、その前に身を退かせてもらいます。
——どうしてですか?会長としても、まだ、当分やることがいろいろとあるでしょう(笑)。
織茂 若い人たちの邪魔にならないようにします。思い巡らせてみると、例えば、自動車! 私たちの時代は、エンジンを動かすのにカギ型の器具をグルグル回してエンジンを動かしていたのを覚えています。今は、ガソリン自動車が、電気自動車になり、走行に危険だと自然にブレーキがかかる。ハンドルを握らない自動運転。もうすぐ自動車が空を飛ぶ(笑)。もう、自動車じゃないです。私たちが身につけた経験や、育んだ勘は過去のものかな?魚屋の自社が開発した、フィッシュオーダーも驚くほどのデータが出てきますしね。ただ、ディベロップメントに立ち会えることが、大切ですね。
——物事は、裏表、横面からも見ますから、自分の業界から特化した見方というのは意外におかめ八目ですね(笑)。
ところで、業界的にみると、店はスーパー、百貨店に入っていますが、どういった状態なんでしょうか?
織茂 百貨店やスーパーがアマゾンや楽天市場などに押されているのも事実です。当社の商品を通販に乗せますかね(笑)。商品には絶対の自信がありますから、ベトナムの人たちにもどんどん技術が向上してもらってね。
——まだまだ、いろいろ考えられるんでしょうね。
織茂 そう考えられますね。これから先は秘密ですけど(笑)。

荻窪を、もっと大事にしたい。
そのためには…。
会長・社長の就任披露パーティ風景

——いろいろと仕事をこなす会長。大忙しで大変ですね。一日のスケジュールは?
織茂 荻窪の本社で会長としての執務があります。それと今は、タウンセブンの社長もしていて、そこと行ったり来たりしていますね。それでも必ずこの辺にはいます。
——夜も荻窪に?(笑)。
織茂 夜も荻窪の飲み屋さんの檀家回りしています(笑)。長いお付き合いの店が少なくなって寂しいですよ。
——長い間に老舗と言われる店もなくなってね。
織茂 そう、気を遣ってくれる。クラブトミのママがすごかったな。ある会合で挨拶に登壇すると、「待ってました! 織茂社長」って、声をかけてくれる。うれしいですね。そうなるとやっぱりそのお店へ行ってお金を払おうという気になるよね。高くても(笑)。そういうことを若いママさんたちは、勉強しないとね、
——トミのママは、自分のお店だけを考えるんじゃないですね、偉いですね。老舗のトップをいってただけありますね。
織茂 それもサービスですよね。それは大きい、大きい。
——ところで、今は息子さんは社長ですが、確か井荻中学でしたね。地元の学校でしっかりと勉強して。
織茂 そうですね。友達もいっぱいいますからね。
——それは、いいことですね。
織茂 そうです。いいです。僕が寂しい思いをしたのは、池袋で過ごしていたから。学校も向こうだったし、初めは全く荻窪の人達との交流がなかったんです。それはいやだなと思っていて。そのことを考えましたね。
——そういうことから、常に地元を大切にという姿が見えるのですね。ご自分で努力されて。地域にしっくりと。人によっては、地元を全然考えない人もいますね。ただここで稼いでという人もいて、それは寂しいですね。
織茂 だって荻窪、こんないいところですから、大事にしなくてはね。
——『荻窪百点』は、地元でおかげさまで53年目になりましたが、地元のために良かれと思う記事を作っていきます。まだまだお聞きしたいことがたくさんありますので、引き続き次号もよろしくお願いします。