特集・太宰治没後70年 太宰治と荻窪
「荻窪百点」取材ノートから
郷土史家
荻窪百点編集長 松 葉 襄
その6・
区立複合施設「ウェルファーム」に
太宰治と碧雲荘「記念碑」
誰が頼んでも、「碧雲荘は、私の目の黒いうちは絶対に!、売りません、文化遺産の話もダメ」と、一切、耳を貸そうともしなかった田中おばあちゃん。亡くなると、遺産相続で所有者となった、ハワイに住む娘・田中利恵子さんは、あっさりと「建物を移築する方に差し上げます」と、玄関先にダンボールに手描きの看板を掲出した。そして「あの建物は、私のおじいちゃんが建てて、私が暮らしてきた家。文化遺産なんか関係ありません」と言う。理由は「建物のない土地を売る」であった。
この事を知った、かねてから「碧雲荘」を文化財として残したい人たち、グループは、とにかく何とかしたいとの思いで立ち上がり行動に出たが、どの案も実効性に乏しく、時間が過ぎていった。頼りになるのは杉並区なのだが…。
そこに隣接した「碧雲荘」だったので、敷地建物を杉並区が買い上げ用地とする。そうなれば建物の現地保存が可能になるのではとの思惑も出るほどであったが、なぜか、杉並区を利枝子さんは交渉対象としなかった。杉並区もその気はないとの返事。
それから間もなくして、心ある人たちの現地保存の願いもとどかず、建物は九州・湯布院へ移設復元と決まった。
旅館「二本の葦束」に引き取られたが、「碧雲荘」の名前を使うことを利枝子さんが認めないため、「ゆふいん文学の森」の名称でオープンした。その後、ここは旅館「二本の葦束」とは関係なく独立して、今は、一階を飲食の店に文学記念館としている。
一方、天沼の跡地は、結局、杉並区が取得して複合施設「ウェルファーム」用地となって施設も完成した。そして現在は、かろうじて建物のあった敷地の片隅に碧雲荘があった証の「案内板」が設置され、施設4階には「太宰治と碧雲荘」を説明するパネル展示コーナー」が設けられている。
「案内板」には、荻窪の太宰治と彼が住んだ下宿屋「碧雲荘」が紹介されているのだが、どのような内容で紹介されているか、荻窪に関わりの部分を抽出した。
その7・
「碧雲荘」跡地に
設置された記念碑
太宰治が住んだ下宿屋、碧雲荘(へきうんそう)は、大工の棟梁田中豊作氏によって建てられた自宅兼下宿屋です。昭和10(1935)年に建築され平成28(2016)年3月までここ(杉並区天沼三丁目19番22号)に建つていました。昭和初期、中央線に沿って郊外住宅地が広がりましたが、その頃の高級下宿の特徴をよく残す建物でした。
小説家・太宰治が昭和11(1936)年11月から翌年6月までの約七ヶ月間、二階の八畳間で最初の妻・初代と暮らしていました。平成29(2017)年4月、碧雲荘は、「ゆふいん文学の森」(大分県由布市湯布院町川北字平原1354—26)に文化交流施設として移築復原されました。
太宰治の天沼時代
太宰治は、師と仰いだ井伏鱒二を慕って、天沼に住みました。
【第1期天沼時代】
昭和8(1933)年2月〜昭和10(1835)年7月の約2年4ヶ月。
最初の創作集「晩年」に納められている佳作が次々と書き継がれ、新進作家として充実した良い時代でした。
天沼は、太宰治と名乗って出発した最初の拠点であったと言っていいでしょう。
【第2期天沼時代】
昭和11(1938)年11月〜昭和13(1838)年9月の約1年10ヶ月間。
麻薬性鎮痛薬中毒で、東京武蔵野病院に入院していましたが、完治し退院した太宰は、碧雲荘に入居し、入院中の出来事を題材に「human lost」(後の「人間失格」の原型といわれる)を執筆しました。しかし、自分が入院中にあった妻の過ちを知らされ、自殺未遂後、妻と離別し、下宿屋鎌滝に移ると、この経験をもとに「姥捨」を書きます。総じて、虚無的なスランプの時代でしたが、このつらい時代があったからこそ、その後の作家太宰としての成熟があったと言えるでしょう。
その8・
新たな太宰治を知る特集
「東京人」
太宰治が衝撃的な死を遂げてから70年、この間太宰の作品は幅広い年代の読者に愛され、様々な形でブームとなった、太宰の誕生日であり命日でもある6月19日は「桜桃忌」と名付けられ三鷹・禅林寺の墓には花が絶えないという。これまでは太宰といえば、暗く破滅的な無頼派として熱狂的な信奉者がいる反面、その生き方ともあいまってアンチ派も数多くいる。本書は様々な角度から太宰治を追っている。
月刊「東京人」7月号 没後70年、やっぱり太宰が好き!
特集〝今こそ読みたい太宰治〟
中学、高校、津島修治時代の落書きのようなノートに始まって、絵や色紙も掲載、落書きだけをみればその年頃の若者かとも思うが、旧制弘前高校2年の時には同人誌を個人で編集発行している。しかも吉屋信子、船橋聖一、井伏鱒二など中央の新進作家からも有料で寄稿してもらったというから驚きだ。
また新宿にあるバー「風紋」の林聖子さん、再録ではあるが吉本隆明氏(故人)のインタビュー記事は、生前の太宰を知る人の貴重な証言であり興味深い。表紙は銀座のバー・.ルパンで高足のイスの上に座る自然体の太宰の有名な写真。穏やかな笑みを浮かべてはいるがその奥の壮絶な人生を思う。
非合法活動、薬物中毒、自殺未遂心中未遂、煙草、浴びるように呑んだ酒、血を吐くほどの結核、妻子を守りながらも斜陽の女性の子の認知、そして最後を共にした山崎富栄との関係、そんな中で数多くの作品を発表していったという恐ろしいまでの原動力!これまでの太宰のイメージとはまた違った発見が数多くあった。
玉川上水での緊迫した経緯もさることながら、情死相手の山崎富栄の日記を掲載した「週刊朝日」はあっという間に売り切れたという。この富栄の日記争奪戦については、富栄の父親を納得させいち早くその日記を手に入れた永井萠二氏の寄稿に詳しい。(本誌324号に再掲載)
その9・
「太宰治のこと」井伏 鱒二
太宰君の家出の報は意外であった。私は衝撃を受けた。しかし、なぜ死んだかその真相は私にはわからない。なぜあんな形式をとったのか。なぜあんな場所を選んだのか。これも私にはわからない。あれこれと想像をめぐらすだけである。新聞記者にたずねられても困るだけであった。これが以前なら、何かにつけ屈託したような場合には、直ぐに太宰君に会って話しあうことにしていたが、もうそれが出来なくなってしまった。やがて彼の作品でも読みなおすよりほかはない。
中略
間もなく彼は荻窪に移って来て家も近くなったので、それからはたびたび私のうちに遊びに来た。いっしょに散歩したり、いっしょに旅行にもでた。
中略
以上,二十年にわたる交友のあらましを書いた。いま私は、自分のして来たことについて悔いることがないとはいわれない。ことに最近に至って、或は旧知の煩らわしさというようなものを、彼に感じさせていたかもわからない。この点、太宰君の死をいたむ心情に、何か拍車をかけるようなものがあるかとも考える。
文芸春秋一九四八年八月号
その10・
「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」 松本 侑子
その11・
<文学散歩>太宰治と山崎富栄ー白百合忌ー 長篠 康一朗
六月十九日の桜桃忌といえば、一般に作家太宰治の命日と思いこまれているほど、一種の社会的行事の如き観を呈しているが、その一週間前の六月十三日に、文京区の永泉寺で白百合忌が営まれていることを知っている人は、さほど多くはないであろう。
いまを去る三十五年前の六月十三日夜半、太宰治は、山崎富栄と共に小雨降る玉川上水に入水して自殺した。十九日というのは、ふたりの御遺体が発見された日ではあるが、この日が御命日に当るわけでは勿論ない。つまり三鷹禅林寺の桜桃忌は、当初出版社の主催、その後は弟子たちによる実行委員会の運営によって今日に至っているので、太宰治の命日とは関係なくおこなわれているといえよう。
昭和四十一年六月、山崎家の菩提寺である永泉寺(文京区関口町二の三の十八)において、十八回忌法要と「山崎富栄を偲ぶ会」とが、御遺族とお茶の水会有志によってよって営まれ、私から今後は富栄忌と名づけるように提案し採択された。お茶の水会とは、富栄の父山崎晴弘の創立したお茶の水美容学校卒業生の集まりである。その翌年、桜桃忌にさきだち、祥月命日にあたる六月十三日に第二回富栄忌が営まれたが、当時、新宿紀伊国屋ホールで上演された伊馬春部作「桜桃の記」に主演した金子信雄、丹阿弥谷津子氏は、桜桃忌に出席する前に片手落ちにならぬようにと永泉寺に詣でてから三鷹に向われた。永泉寺住職安田弘達師によれば、「丹阿弥さんは、亡くなられたかたには、このお花が一番ふさわしいかたのように思えて…」と、富栄さんの墓前にたくさんの白百合の花束を捧げられたという。
その故もあって、次の年からは六月十三日の法要を白百合忌と改称することになったのだが、それには山崎富栄だけではなく、太宰治と、田部あつみ(太宰と鎌倉腰越で心中を図り死亡)小山初代(最初の妻)をも、ひとしくご供養させていただき、その御冥福を祈念するためでもあった。さきにも述べたが太宰治の命日に法要を営むところはどこにも無く、また、太宰が死に臨んで書き残した法名さえも、まったく無視されていたからである。
太宰治の実家(津島家)は浄土真宗で、遺骨の埋葬された禅林寺(黄檗宗)における太宰の法名は、「文綵院大猷治通居士」であるが、太宰自身は「諦生院法道慈善施先祖」と書き残していた。そのようなわけで、太宰と富栄の御命日に白百合を営むことにしているのだが、当時においては田部あつみ、小山初代の墓所も全く分からず、それぞれ俗名でご供養させていただいた。
これまで、太宰文学研究会(長篠康一郎主宰)文学散歩の会(弓削孝子主宰)有志により、例年の白百合忌でご供養されるのは右の方々であったが、本年は新たに、釈尼静香(太田静子)を加えることとなった。なお、太宰のふるさと青森県弘前市の清安寺(小山初代の菩提寺)においてもこれまで毎年七月に白百合忌をとり行って来たが、本年は十月に行う予定である。太宰治が自殺決行にさいし、なぜ十三日を選んだのか。太宰の絶筆は「如是我聞」であり、そして自ら書き残した「諦生院法道慈善施先祖」に就いても、その宗教的真の意味解釈を御教示いただきたいものと希ってやまない。
(太宰文学研究会主宰)
荻窪百点112号掲載から転載