荻窪NOW 荻窪地域区民センター設立40周年記念キャンペーン
「荻窪の記憶]を伝える道に愛称をつけよう!
公募で「荻外荘通り」と名付けて
「荻窪の記憶」を伝える道に愛称をつけようと、荻窪地域区民センター(会長・中澤一郎)は、設立40周年記念キャンペーンとして企画。昨年の七月1日から11月30日まで、名称を募集してきましたが、このたび、選定委員会にて「荻外荘(てきがいそう)通り」を選定、決定しました。広く皆様に親しまれるように、そして、史跡、文化財の多い、この通りのガイドにも役立たせ、荻窪の歴史を伝えようということです。
今回、該当する通り範囲は、荻窪駅南口の旧青梅街道(現131B号道路)から大田黒公園、春日橋を経て区民センター前から環8通りを越えて大宮前体育館までです。寄せられた愛称案は、公募専門の「ガイド誌」に掲載されたこともあり、その数は延べ578票に及びました。
言い回しの違いはあるが、「文化」「歴史」「昭和」「ロマン」「メモリー」をイメージしたものと広く片寄りもありませんでした。
ちなみに、5票以上の愛称案は、次の通りです。
荻外荘通り12票、荻窪メモリアルストリート11票、文化通り9票、近衛通り、春日通り、メモリーロード以上が8票、荻窪文化の道7票、荻窪ロマン街道、荻の道6票、昭和の道、昭和史の道、荻窪文化通り各5票。
選定委員会の構成は、荻窪法人会、荻窪東町会、荻窪中央町会、荻窪一・二丁目商栄会、すぎなみ文化協会の各会代表者と松葉襄氏(荻窪百点)。
都合3回にわたる選考委員会が開かれましたが、ここで新たに、「大田黒公園通り」と「荻外荘・大田黒公園通り」、そして、この辺りには「松」の景観が多いことからその関連の名称も加えて検討されました。結果、「荻外荘通り」を決定し、通称名として広く親しまれるように周知することとしました。
荻窪地域区民センター協議会の松井和男副委員長は、選定理由をこう説明しています。
「荻窪の記憶」を伝える道に「荻外荘」の名がふさわしいと考えた理由は、「荻外荘」が「昭和史の舞台」としてばかりでなく、荻窪が武蔵野の農村から明治のエリートの別荘地を経て文化人も多く住む郊外住宅地へと発展してきた、歴史を伝えてくれる貴重な存在だからです。
なお、「荻外荘通り」と書いて愛称の募集に応募された方への表彰および記念品贈呈は、3月16日の荻窪地域区民センター40周年記念式典の中で行ないます。 (松葉襄)
「荻外荘通り」について
大正末から昭和の初めにかけて、現在の荻窪全域の井荻村は、村長の内田秀五郎によって宅地化のための区画整理が行われました。道路が整備され、この道も幅4間(7・2m)で畑や雑木林が切り開かれ造られました。
当時、東荻町(現在の荻窪四丁目)に住んでいた考古学者の甲野勇は「東荻から川南に抜ける大通りが造られたとき」と記述し善福寺川に臨む斜面に縄文土器が固まっているのを見つけた」とあり、昔から、この一帯は生活環境のよさをうかがわせます。
時代は下って、大正天皇の侍医を務めた入沢達吉博士がこの地に住まい、近衞文麿がその邸宅を譲りうけたのは昭和12年。西園寺公望の命名により「荻外荘」とうたわれたが、日本の将来を決める「荻窪会談」といわれた重要会議がここでおこなわれ、毎日のように新聞紙上をにぎわし、荻窪の名を全国に知らしめることにもなりました。
ここは戦後、吉田茂が一時、自宅として使い、終戦処理を行ったところで、あの有名なトレードマークである、紋付に白足袋で時には愛犬を連れての散歩姿を近所の人たちは目にしています。
この道には、そうした、荻窪の歴史、暮らした人々とともに、昭和という時代の記憶が刻まれていると言えましょう。 (松葉襄)
「荻外荘通り」には、どんな史跡、
文化財があるのでしょう
★「荻外荘」(国指定史跡) 昭和12年の第一次内閣から第三次内閣と日本の国策を決定し、終戦後、自決した近衞文麿が過ごした居宅。庭の一部は公園。
「西郊ロッヂング」(国登録有形文化財)昭和5年から13年にかけて建てられた洋風下宿。当時として珍しい、各室ドアには鍵、フローリングで、内線電話がついていた。
★「大田黒公園」=大田黒元雄氏ドビュッシー、ストラビンスキーなどの名を日本に初めて紹介し、音楽評論家として活躍。屋敷跡を日本庭園として整備し、昭和56年に開園。氏はドビュッシー、ストラビンスキーなどの名を日本に初めて紹介。近代音楽を日本に紹介した音楽評論家・大田黒元雄が昭和七年にアトリエとして建てた洋館は記念館として保存。区民ばかりか広く憩いの公園として親しまれている。秋のライトアップはTVでも紹介され、その名は全国に知られる。
★「渡邉家住宅母屋」(国登録有形文化財)吉村順三(アントニオ・レーモンドの弟子)が設計し、昭和34年に建てられたモダニズム建築の秀作。
★「源戯山房/旧角川源義居宅」(国登録有形文化財)俳人で角川書店の創立者角川源義が、昭和30年に建てた近代数寄屋造りの私邸。
★「与謝野公園」明治・大正・昭和にわたり近代史に功績を残した与謝野鉄幹・晶子が永住の地と自ら設計し晩年をすごした家の後を公園にした。「遙青書屋」「冬柏亭」「采花荘」と名づけられた建物は全てなく、代表的な歌を歌碑としている。「冬柏亭」は京都鞍馬山に移築され唯一現存の建物。地元、桃井第二小学校の校歌の作詞はご縁で晶子が作った。他は42頁参照。
文化人が多く住んでいた「荻外荘通り」沿道
かつて、「西の鎌倉、東の荻窪」と言われて、文士や文化人が多く住む土地とされてきた荻窪。「荻外荘通り」界隈に絞っても、次の人たちの名をあげることができます。
与謝野鉄幹・晶子(歌人)、石井桃子(児童文学者)、神津港人(洋画家)、
恩地孝四郎(版画家)、田中青壷(日本画家)、登張竹風(ドイツ文学者)、阿川弘之(作家)、長谷川町子(漫画家)、
戸川秋骨(作家・英文学者)、戸川エマ(随筆家)、執行正敏(バレエ舞踊家)、南洋一郎(冒険小説)、遠藤実(作曲家)、竹下彦一(詩人)