「医療伝道は福音の右腕」の教えをもとに東京衛生病院
「こころとからだのいやしのために キリストの心でひとりひとりに仕えます」を理念に

辺りが夕闇につつまれる頃、教会に灯がともった。
 荻窪に、セブンスデー・アドベンチスト本部教会(後の天沼教会)が開設されたのが大正4年4月、レンガ造りの洋館の窓に電灯の輝きが。初めて見た村人たちにとって、それは「一大不夜城のように映った」という。そして、それを一目見ようと連日連夜、近在からも大勢の人が訪れたという。

大正6年に建造された礼拝堂
 それもそのはず、村には、まだ電気もなく、うす暗いランプ暮らしをしていた農家の人達の目に、そう映ったのも無理からぬこと。
 荻窪(井荻村)が現在のように大きく発展した礎となったのは、区画整理が早くからできたからで、その仕上げはインフラで、なかでも難しかったのは電気事業だったという。
 村の整備に、その偉業を成し遂げた内田秀五郎村長。淀橋青果市場の理事長としてご健在と知り、その頃の様子を知りたいと訪ねたのは、荻窪百点創刊間もない頃だった。
 「村に電気を引くのは困難だったね。なかなか電気会社が、うんと言わないんだ。聞くとね、採算がとれないからと言うんだ。そうだろう、家がポツン、ポツンと畑や雑木林の中に離れてる、そこに電柱をたて電腺を引くんだからね。だけどね、これからは電気のない暮らしは考えられないと思ってね、電気は中島飛行機までは来てるんだ。そこで考えたね。一軒に二灯を付ける契約を条件に話をつけたんだよ。一灯幾らの契約だからね。ところが、こんどは農家が、ランプでいい、お金をかけられないと言い出してね。小さい球だけど灯ったときはうれしかったね。苦労したからなあ」と述懐された。
「医療伝道は福音の右腕」の教えのもとに、アメリカからゲツラフ医師を院長に迎えて、教会の敷地に、わずか20床で東京衛生病院は誕生した。昭和4年のことだった。
 ところで、青梅街道から、この東京衛生病院に至る道が「教会通り」と呼ばれるようになったのは、戦後も世の中が落ち着いた、昭和35年のころ。
 その前に、「この通りに店が出始めたので商店会を作りたいんだが、何か通り名をつけた良い名前をと思うんだけどね」という種苗とお花の店天豊園のご主人清水竹侯さんとの話がある。
 この道は、昔は畑の中の一本道。日照り続きには、この奥の弁天池に祀られた弁天さまヘの「雨乞い」の道で、村人たちは「弁天みち」と言っていた。
 「今どき雨乞いでもないだろう。歴史的に考えても、教会通りではどうだろう」と、そんな話から、それが商店街名となり、それをきっかけに、名のなかった通りを「教会通り」と呼ぶようになった。
 青梅街道から狭い教会通りをぬけて東京衛生病院がある。広い前庭に五月ともなればツツジが咲き、やすらぎを覚える。
 はじめに目につくのが病院名を刻んだ石。「エベン・エゼル」(助けの石)という。聖書の故事にちなみ、神の助けを祈念し、病院を大きく改修した平成19年に木曾石に刻んだもの。目を移し正面玄関上の窓にはステンドグラス。これには「私はぶどうの木。あなた方は、その枝である。もし人が私につながっており、また私がその人につながっていれば、その人は実を豊に結ぶようになる」の聖書の言葉(ヨハネによる福音書15・5)に基づいた病院のあるべき姿をあらわしたもの。 地域密着を心がける病院として、新たに外来者専用には、通り名を冠して「教会通りクリニック」としている。
     写真・文 松葉 襄