波乱万丈の人生でした。
画商に始まって、八重幡塾では人間学を

株式会社 サンメリット
代表取締役 八 重 幡  清 忠 氏

聞き手 松葉 襄

悠々自適の活動も分相応に

——お名刺のサンメリットは会社と分かりますが、もう一枚のは、豊島区国際アート・カルチャー特命大使とありますが…。
八重幡 それですが、豊島区の区長さんが上梓された本を読んで、とても素晴らしい人なのでお会いしたいと思っていたら友達が、紹介してくれて会えたんです。その時、お互いに意気投合してね、その場で豊島区の特命大使をやってくれと言われて…。いや、僕は所沢に住んでいるけど杉並の人間だと言ったら、「いや、番外で」と言って、すぐに名刺を作ってくれたのが、ご縁です。
——どういう大使ですか?
八重幡 韓国、中国と日本のアジアフォーラムを豊島区がやることで、2月1日に発会式があったんですが、それでいろんなイベントを今年一年やるんです。その協力ですね。
——そうでしたか。
八重幡 韓国、中国、日本の関係をを良くするのは、文化が大切で松葉さんのようなマスメディアですよ。政治の世界は、いろいろありますからね。
——豊島区のレベルで開催するということですね?
八重幡 そうです。そこで市民レベルなので、政治では色がついてしまうので、政治じゃなくて、日本を良くするのはマスメディアというわけ。いつも視聴者、読者の目線で物を言っていけばいいんですよね。
——国の改革、テロでも、まず、メディアから入りますね。
八重幡 そういった意味では、市民の目線は大きな誤りはないですね。ただ市民もいろいろで、そこはうまく中庸を軸にしていかないとメディアも色がついてしまうんです。色がついたら取れませんよ。それと終局的に渋沢栄一翁のように、「賢善合一」でのお金儲けですね。お金を儲けない仕事のボランティアだけではどうにもなりませんね。
——そう思います。
八重幡 私は、八重幡塾という「上に立つ者のリーダー学」の勉強会をやってまして、塾生には厳しく、そういったことを言っています。上に立つものは、カルロス・ゴーンのように自分の私利私欲のためにしていると思われたらアウトですから。取引先の信用や社員の信頼、お客様の信頼を取っていくものは、すべて、リーダーの心がけ一つですからね。私は、そんなふうに思います。
——豊島区長とは、そういった事や、これからお話いただくこと、考え方で一致したんですね。そして国際アート・カルチュアチュア特命大使に…。

東南アジアの工芸品や美術品から

八重幡 私の仕事は、絵で始まったんです。銀座の貿易商「香峰」の門を叩いたのが最初です。社長は石井吉三郎さんといって、中国に精通し誠実で素晴らしい人でしたね。東南アジアの民芸品や工芸品とか美術品を扱っていて、そこが今の画商になるきっかけでした。社長さんは、香港やシンガポール、インドの方まで私を連れて行ってくれて、宝石の勉強も少しさせてもらいました。
——よかったですね。
八重幡 ところが、中国貿易は当時は360円のレートで香港経由の時代。中国は政経分離の国では無いので、例えば、製品を5000個発注すると、数が揃わないと別のものを入れて送ってくるんです。ワンウェイなんです。掛け軸を100本、300本、500本と詰め込んでくるんです。香峰の社長にそれを売ってくれと言われてね(笑)。当時の私は、掛け軸などは、生まれて初めて見るものですよ。それに若輩の私は営業をしたことがなかったので、ずいぶん辛かったですね。けれど、それが物が売れる時代だったんです。敗戦で、やっとオリンピックで盛り上がって、これからという時で多くの家庭の床の間には掛け軸が無かったので良かったんでしょうね。それで昭和44年に独立して会社を作りました。
——「香峰」で波に乗ったんですね。
八重幡 はじめて2〜3年は飛ぶように売れてね。それでも画廊とか表具屋さんをまわって買うところを探すのが大変でしたね。全く新しい仕事。行商ですよ。結婚して、上の娘が生まれたばかりでしたが、1周間ぐらい営業に行って、うちに帰らないということもよくありました。車の中にも泊まったりして。そんなんで、だんだん、絵の商売が多くなっていって。そうすると、同業者で力のある人が出てくるわけですよ。そういうところと同じものを売っていたら勝てないです。それで韓国に行ったり、香港で描かせたり。台湾は本当によかった。腰を落ち着けて新商品を作ってもらって。特許などオリジナルでやらないと絶対に負けちゃう。そして次の段階に入ったんです。

荻窪で裸一貫で始めた画商の仕事

八重幡 私は、荻窪の二代目でも三代目でもなく、荻窪にポンと落下傘で来て、会社を作った。金も人脈も何にもなくて裸ですから、何をやるにしても、人と同じようにやってはダメでしょう。画商もそうでした。たくさん老舗があるんだからね。
——そうですね。
八重幡 私は絵は好きで、若いときは描いていましたが、それを活かしてその後に著名な先生方とお付き合いしたことから、修復の仕事など随分ありました。
——絵が好きで修復の仕事まで?
八重幡 修行ということでもないですが、見よう見まねで覚えましたね。自分が直接仕事しなくても心得があるのとないのとは違いますね。日産アプリーテ(今のクイーンズisetan)の私のギャラリーで大きな仕事をしました。大きいのでは東郷青児の作品も約1000号、7メートルもあったので、ギャラリーを仕切って数ヵ月かかりましたね。いきなりでは、そういうことはできませんね。その作品は埼玉県熊谷の八ツ橋デパートの玄関を入ると、展示されていますよ。

作家の発掘でも手腕を発揮

——作家をかかえてたりもして?
八重幡 そうです。韓国とか台湾に行ってオリジナルを作って商売をしました。そうしたことで、他の画商と違う形で商売をしていました。それが功を奏したというか…。
——そこは、センスの問題ですね。
八重幡 絵描きさんを育てるのはリスクはつきものですよ。会社の看板になった中国の江雲さんには、専属契約で描いてもらってね。京都仏教会の理事長の有馬頼底猊下という高名な和尚様がいらして、ある時、「京都の承天閣美術館で展覧会を」と言われて、私は江雲先生を連れて京都へご挨拶に、参りました。ホテルも用意してくれて…。展覧会を1ヵ月間やらせて頂いたんです。他にも、日本橋や長野の東急デパートでもやりしました。私の白河支社の10周年の時には、江雲先生をメインにして著名な作家の作品などを展示してね。とにかく、人と同じことをやっていてもダメなので、人が競争できないものをやるからこそ、商売が継続できるんです。
——わが道ですね。
八重幡 そうです。だからそういう普通の仕事をしながら、パテントをとったり、いろんなことをしてきたんです。私の画廊とか美術の仕事というのは、大企業化はできないことです。その分、自らの力量の範囲内でやればいいんです。一時的には大きな代償を払いましたが…。僕の人生は、波乱万丈でしたよ。

若い頃の仕事ぶりが
今の仕事につながって

八重幡 それでも私は、大手の出版社などでの美術のアシスタント的な仕事をずっとやってきてたんですね。凸版印刷の八重幡としても活動していました。一つの仕事が決まるとワンオーダーが何千万円です。何年も続くから何億という額になるんです。また、協力会社のミスもあるんですが、私は失敗した時に、そうだからといって、お金と労力、時間は絶対惜しまなかったんです。
——そうはなかなか出来ない事ですが、後のことが、あるでしょうから。
八重幡 例えば、配送センターで出版社の本がベルトコンベアで流れていて、セットする我が社の製品に不良品が出ると、そのラインを全部止めてしまうんです。大変ですよ。
——そうでしょう。
八重幡 私が若い時に、取引先の担当に私の失敗を、ものすごく罵られた事があったんです。一般的には、自分の仕事で失敗すると出世できなくなる。本来ならば社長表彰をもらえる人が、その失敗のせいで、もらえなくなる…。そういう事の経験で、私は生涯、担当者のためにも絶対失敗での迷惑はかけさせないと思って仕事をしてきた私だから、凸版さんが、仕事を私に依頼してくれたんです。「自分が新人の時に八重幡さんの対応がすごく良かった」と。フォローは良かったと言うんです。人はどこで見ているかわからないですね。それが大きな仕事につながるんですね。

画商から出発して、
「創作詩画」でブレイク

八重幡 私の仕事は、主にパテントなんです。
——サンメリットとして?
八重幡 そうです。ただ、うちはホールセイラーで小売はギャラリーだけ。仕事は全部が卸売りなんです。製造販売、業者さんだけに売ってました。他には「創作詩画」です。たとえば、私が松葉さんにインタビューして、松葉さんの名前を過去の実績・人格・貢献・発展を織り込んだ四行漢詩を専門家に作ってもらう。それを、書道家に書を、絵描きさんにはあなたの干支の絵を描いてもらって、世界にあなたの一点物の「創作詩画」とするんです。これを私が考案して売り出したらヒットして、ドル箱になったんです。額縁、掛け軸などのパテントや彫刻などの著作権を、私は5つ6つ持っているんです。これに関りの著作権も全部、私が買ってね。
——パテントは強いですね?
八重幡 今から30年ほど前に出版社の仕事で、ギリシャのエピダブロスという所に行ったんです。ここには博物館があって、医学の神様アスクレーピオスという等身大の石像があるんです。作家と一緒に行って粘土で型をとったんです。ギリシャの商務局と交渉していただいて2ヵ月かかりました。その間に、私は地元の専門家と通訳と一緒にその史跡を訪ねて、アスクレーピオスの歴史とかを調べて資料を作ったんです。それを持ち帰って高岡の銅鉄器の産地で鋳型をとって像をつくって納めたんです。サンメリットが著作権全部持つことでね。
——そういうことが、成功につながるんですね。
八重幡 そうです。そうしたら、大阪の有名な会社がその像をテレビで使ったんです。ウチの弁護士がこれを使ってはダメと、そこで著作権を主張して、ペナルティを戴いたんです。著作権は強いですね。

バブルの時代に
工業製品で必死だった

——バブルの頃は、どういった状況で乗り切ったんですか?
八重幡 そのバブルの前に、出版社の全集本というのがものすごく流行った時期があるんです。医学大百科事典、建築大百科事典、料理大百科事典といった、10万円とか20万円とかみんな高いんです。例えば、建築の百科事典だと20万ぐらいしたんですが、建築に拘わる方々が買うわけです。そのサービス品として書架を付けてもう一つ何かを付けるという、その段階で、僕が呼ばれて企画に入るわけです。いろんな出版社の、例えば、平山郁夫先生の版画や複製作品をサービスにつけるとか。アテネの小さな像など、そのプレミアムでつけたんです。その商品を手がけていて、1オーダーが2000とか3000ですが、3000部くるとプレミアム商品も3000個、それがヒットすると3年から5年と続くんです。1オーダーが、1千万とか3千万とか5千万円という感じです。最初は苦労するけど、あとはもう、うちは品質管理と伝票だけでいいわけです。
——それが、出来たんですか?
八重幡 ところが、プレミアム商品について公正取引委員会から高い景品はダメってなって、当時の新聞にたくさん出ましたよ。それまで当社は、15〜6本あった各出版社のプレミアムの注文がいっぺんに全部なくなってしまって。これまで続いているもの以外は、新企画は全部ダメで売上は崖っぷち(笑)。
——そういうことが、あるんですね。
八重幡 そんな時に、僕が付き合っていた自転車メーカーの部長さんから新しい話があったんです。その頃、日本の企業は部品調達コストが高くなり、海外にシフトするようになって、日本の空洞化が始まっていたんです。その部長さんから、台湾のマーケットを調べてくれと言われてね。大企業が動くとまずいからというんです。国内での部品調達は高いから台湾にシフトしたいと言うので、台湾のマーケットを調べてレポートを出したんです。
——意外なこともするんですね。
八重幡 それは、部長さんと飲みに行った時、先に述べた公取でこんなになってと、こぼしていたんです。そうしたら、うちの部品をやってみたらということになって、それで渡りに船でやったんです。これは台湾で造る工業製品なんです。僕がやっていたのは民芸品。これが大きな失敗の元(笑)。まだ技術も何も管理能力も品質管理も出来ていなかったので粗悪品が多く出て。工場で検品すると不良品が出てロットアウト。2割3割しか受けてもらえない。そうすると、1個あたり損害がいくらと、企業さんから請求がくるんですよ。そんなことをやっていて、美術の仕事が公取のひと言でアウトになって、その穴埋めにそういう仕事にシフトしたんですが、一番会社の資産を無くしましたね(笑)。
——上手くいった話と、聞いていましたら…(笑)。
八重幡 僕は諦めないで、とことんやっていくんですが、バブルが弾けて銀行から貸しはがしにあって、銀行さんも手のひら返しでね、大変でした。それでも、一生懸命仕事をやっていたから助かったんですよ。バブルで大儲けをしていた他の画商は、1億とか2億とか問題になった。そういうの一切しなかったから、だから、遠回りしたけど生き残れたのは、バブルの恩恵を受けなかったからなんです(笑)。

大変な時に荻窪法人会に救われた

——大変でしたね。
八重幡 その時に、荻窪法人会の先輩が、刑務所で生産しているツテを知っていて、僕に声をかけてくれて。日本の刑務所の中で作ってあげたらどうかと。とても嬉しかったし、取引先の課長と係長がウチまで来て、そのくらいは今後の発注で挽回できるからと言ってくれましたけど、手元にお金がなくて失敗したときは迷惑をかけるから絶対しませんと。1億の仕事する時に、失敗したら1〜2億円のお金があっても足りないから、必ず迷惑をかけるからと。それで納得してもらって全部撤退しました。
——それで、どうなりましかか?
八重幡 その後は、平山郁夫先生の知り合いから6点著作権を使っていいと言われて、それを使った版画で、この荻窪から全国に売り出した。それで僕は救われたんです。だから、荻窪で世話になった人は多いですね。人は一生懸命にやっていると、必ず救ってくれる人はいるんですよ。それでも、桃井で狼煙をあげたので、やめるときも大変でした。杉並の土地もみんな処分したし、自宅も処分しなくてはと覚悟しました。自宅だけは残しましたけどね。借金をきれいにするまでに17年かかりましたね。
——清算できたんですね。すごい。
八重幡 借金がなくなった時の幸せね。こんな幸せってないね。だから一番大事なのは、人間関係を大切にして、そういう辛いところから脱出することだね。バブルが弾けて、個人破産をという人もいた。でも私は逃げませんでした。取引業者にもいろいろ助けてもらってね。誰にも迷惑をかけなかったから、それが良かったのかもしれませんね。コツコツやっているときに、この曼荼羅の仕事をいただいたのが幸いでした。
——信用ですものね。

宗派を超えた、
平成曼荼羅の総監督に

——曼荼羅が、最近の大きな仕事ですね。
八重幡 そうでした。いま世界的に宗教でいがみ合って戦争をしているけど、日本では、真言宗の高野山、曹洞宗の永平寺が宗派を超えてお互いに平和のために一緒にやりましょうって今から15年前に、この本山同士が手を結んだんです。そして毎年、トップが交流しているんですが、世界的に宗派の違う者同士の交流は皆無でした。
——とても画期的なことですね。
八重幡 日本の宗教は、空海、弘法大師の真言宗と道元禅師の曹洞宗。最澄が開祖した天台宗は、いろんな宗派の人間を作り出し、仏教の学校の教えから、日蓮宗もそうだし、みんな別れていったわけね。だけど、弘法大師は密教で布教する。教育じゃなくて、旅をしながら広めていく、また曹洞宗はただ座るだけ座禅しなさいという宗派です。
——この違う宗派が一緒に?
八重幡 そうなんです。それで両本山交流の記念事業に何がいいかとなった時、高野山に850年前に平清盛が奉納した曼荼羅があり、これは国の重要文化財、国宝なんだけど、古くなって傷むからしまおうと。それには、これと同じものを復刻することになり、その話が私の方にあって引き受けて無事に奉納したのは今から6〜7年前。その第2次は、850年前の色彩を再現する復元でした。
——修復の仕事もされてましたね。
八重幡 そうそう。これは復元ですが、ここはルビーの粉を使ったとか、この白は貝殻を砕いて使った瑚粉だとか、そういう全部データを凸版印刷さんからいただいて、その指導のもと平成曼荼羅として彩色復元したわけです。
——ほんとうに、大きな仕事でしたね。
八重幡 そうです。サンメリットという会社は最初は画商でしたが、その間に表装とか修復とかしていました。だから日産ギャラリーの時でも、一番大きい修復では東郷青児1000号の大きさのものでした。又、曼荼羅の巻き込む金軸(軸棒)の中心を削り貫き、中に仏画師、表具師それに総監督の八重幡の名前が挿入されました。私の名前が入って、見られるのは百年後。私の末裔も誰もいない。娘が二人嫁いてしまいましたからネ。
——そうですか?
八重幡 でも、名前が残ったからいいでしょう(笑)。これが新しい平成曼荼羅(写真42頁)です。見事でしょう。大きい二幅が一対、古いのも一対、これより少し小さい一対は全部仏画師さんに描いてもらったんです。この色はちがう、この色はこうだと全部指示して仕上げました。私達の特設工房に読売新聞の最高顧問で会長の老川祥一会長と凸版印刷の足立会長と一緒に視察においでくださった。

大きな仕事、大変だった場所探し

——大きな作品はどこで作業をしたんですか?
八重幡 これは凸版さんの板橋工場の社員のトレーニングセンターの2階3階を借り切って工房としていただだきました。3・11の震災の後は使えず。次の仕事では依頼されてから、場所探しに苦労しました。台東区の廃校があったんですが、民間には貸せない、板橋の廃校も交渉したらそこもダメ。文科省の管轄だからとか。それで栃木の方に行ったんです。親しい表具師がいて、あたってくれて廃校がOKになって、市長に会って形だけでも契約しましょうとなってから又貸しだからできませんと土壇場になって断られてね。
——作業が大きいと、そういう大変もあるんですね。
八重幡 大きさは約5m×6mの一対です。それであわててね。結果的に大田原市中学廃校の体育館と教室を借りられて、そこに工房としての工事を空調から全部してもらって仕事がやれたんです。
——良かったですね。
八重幡 職人さんを缶詰にしてやるんですが、10カ年計画なんです。平成14年に、凸版さんから話をもらった時は僕が64〜5歳の時で、私は70歳以後は仕事が出来ないと丁重に断わったんですが、結果的には受けたんすが。
——そうですか。
八重幡 凸版さんが私の一番のお得意さんで、50年お付き合いになるけれど、20年も30年も前に私の担当した人の部下で、「ああ、しばらくだね!」って。「実は八重幡さん、私が推せんしたんだからやってくれ」と言うんです。その人とは、そんなにたくさん仕事をしたわけでなかったのにね。歳だからと断り続けていたけど、断れなくて全部引き受けて、一昨年、やっと終わったんです。収めた後もお寺のフォローとか、いろいろ枝葉の仕事が出てきますね。これが僕の晩年の有難いお仕事です。

曼荼羅の仕事は命がけ

——それにしても大仕事でしたね。
八重幡 あれは命がけですよ。まず自分の知っている人だけを頼ったら危ないんです。ですから表具師は京都から一人、大阪から一人、栃木から一人と選抜して、絵描きさんも年寄りはだめ。10年は付き合うんだからね。途中で病気になったら大変でしょう?丈夫な人、健康な人、途中で放り投げられても困るから、性格もちゃんとしていないとね。そういったところまで全部、飲んだり、お茶をしたりしながらして選んだ。これが一番大変でしたね。
——仕事のスケールから考えてね。何人ぐらいのチームだったんですか?
八重幡 表具師は6人、仏画師が2人、そこに枝葉がいっぱい。他にも、生地屋さん、金襴緞子からいろんな工具、和紙を指定してね。予算などは全部お相手さんですけど…。だけど受けたからには、1円もお金で揉めることはありませんでしたね。仕事もきっちりしたし、トラブルも一切ありませんでした。お互いに全部100%。間に凸版さんが入っており、そのご指導が大きい。だから私が仕事をそこそこやれたと思います。
——これまでに実績があってこそ、できるんですね。
八重幡 その間に、僕は「表装の変遷」という本を書いたんです。これは、凸版さんが全部著作権を買い取ってくれて、この仕事のアーカイブで記録として残すということでした。そんなのにお金をかけるんですから。中国、日本、韓国、チベットとずっと調べて書いたんだけど、出版されずに残念でした。
——実際に行かれて、ですか?
八重幡 行きましたよ。でもチベットは行けなかった。資料をルーツに頼んでいて、揃ったから送りますという知らせが来たんですが、その時に中国の弾圧があって、全部没収されてしまって。それでチベットの資料がほとんどない。たまたま、私のコレクションの中にチベットの曼荼羅があったので、それでお茶を濁したんです。あれは残念だったな(笑)。みんな楽しい経験ですよ。よくやってこれたと思いますよ。バブルで画商が7割以上は倒産して潰れて、夜逃げして財を失った人が多い中でね。

創立30周年を機に店じまいした理由

——無事終わって…ね。
八重幡 前の話に戻りますけど、八重幡塾の活動ですね。私は娘が二人いますが、私が日産ギャラリーを閉めた理由は、下の娘がまだ結婚してなくて、私の仕事をするということだったんです。ところが、働き始めたら杉並の中学校の同級生と再会して結婚することになって…。ショックだったな(笑)。
——それもご縁です。仕方がないでしょうね(笑)。
八重幡 いきなりギャラリーに来て、お嬢さんと結婚させて下さいと。私は、文句は絶対に言わないですよ。私が自信を持って育てた子だから、この子が選んだ人だから文句はない、どうぞって、結婚させたんです(笑)。それで跡継ぎがいなくなって、仕事がギャラリーだけだったら大したことがないけど、他の出版社とかの仕事をすると大変でしょう?跡継ぎがいないのにリスクを負うと、もう60を過ぎて危ない。そしてちょうど、日産さんの再建でカルロス・ゴーンが着任し、座間工場・東村山工場、そして荻窪工場を売却するので、賃貸契約を解消する旨があり、だからもう商売をやめようと腹をくくった。僕の会社の30周年の祝賀会を日産アプリーテでやったんです。200名くらい来られたんですが、人生最初で最後の皆さんへのお礼の会です。会社の絵は銀座や他の画商さんに全部引き取ってもらってね。私は福島の店があるから、そっちに行ったり来たりして、もう、あとは自分でやりたいことをやるとしてね。
——それで、さっぱりと?
八重幡 娘もいなくなったし、これ幸いに社員にもやめてもらって、店をやめようと思ったんです。あとは年金暮しで塾でもとね。そんな時に凸版さんから話が来たんですよ。
——タイミングがいいですね。
八重幡 いや、タイミングは悪いですよ。荻窪に世話になったから、何か、荻窪でやりたいなと思っていましたからね。

八重幡塾を始めるきっかけは、
趣味の料理?

——八重幡塾を始めたきっかけは?
八重幡 駅南にあるチャイルド社さんのお向かいにとても立派なお客さまのお宅があって、その方とは美術品の付き合いでした。軽井沢に別荘を持っていて、美術品の相談に乗ったり、修復を受けたりしていたんです。で、ある時、遊びに行ったら「主人の楽しみで」と。聞いたら大田黒公園のところにゲストルームを作って、海外や地方から友達が来た時にそこでもてなすというんです。麻雀ルームやバーや映像ルームがあって。それに、広い多目的ホールもあって、グランドピアノをおいてね。そしてすごいキッチンもあった。
——そこで、何か?
八重幡 そうです。僕は料理が趣味で40年くらいやっているんで、ここで料理を作りたいって言ったんです。「どうぞ、どうぞ、勝手に使っていいよ」となって、それで、仲間に美味しい飯食わせるから集まれと言ったら、最初は7〜8人、お酒や食材を全部買ってきて費用は頭割り。何回かやっている飲み会の時に、「いつもお説教するじゃないか、折角だから、話をしてくれ」と言われて、それで、商売の話をしたり、いろいろしていたら、参加者が10人、20人と増えて塾となって、狭くなってしまいました。資料など費用は全部自己負担で、飲んで食べて各自5000円ですよ。幹事任せで、自分の分も皆さんと同じく払っているんです(笑)。
——それは、それは(笑)。
八重幡 今は、法人会の2階でやってます。大体20〜30人。出席率は40%で悪くないですね。現役の経営のトップばかりで、多種多彩の方々です。
これもひとえに塾頭の岸岡秀直、田中晴弘さん二人の献身的な協力があってのことです。
——異業種交流ですね。
八重幡 荻窪だけでなく、池袋だとか、日本橋からも来たりね。始まったときから来ている人はもう60、70代ですよ。それでもよく来てくれますね。曼荼羅の仕事をしながら塾は続けてきたんですよ。 
——そうやって、サンメリットがあるわけですが、現在はどうしていらっしゃる?
八重幡 今、社員は一人もいません。それでもいいよと、凸版さんがバックアップしてくれて
——福島に画廊がありましたね。
八重幡 みんな弟に株共に譲渡してます。今の肩書は、美術の総合コーディネーターというところでしょうか。

八重幡塾も来年で15年

——八重幡塾は今年で何年に?
八重幡 来年で15年になります。始めて1年経つか経たないかで凸版印刷さんからの話でした。断りきれなくて受けて、それでも塾は続けたいと思ってました。皆さんから実費以外1円もお金をもらわないでね。
——塾の内容とは、どんなものですか?
八重幡 人間学です。僕は荻窪法人会の青年部会長もやりましたので、後輩がいっぱいいましたから。最近は、いわゆるエリートやリーダーのモラルの低下がさまざまに見えてきて問題になっていますね。不祥事ばかりが目立って、人の痛みもわからないし…。そういった人が増えていますね。それは何故かと言うと、幼少から小さい学問を怠ってきたからです。昔は藩校や寺小屋があって、侍だけでなくて志のあるものは勉強しました。こういう、小学(礼・学・射・御・商)は善を知るための知識なんです。大きな声を出して、意味を知らなくても論語を諳んじたり。そういった勉強をした子が、だんだん勉強していく段階で、それが血肉になっていって、知識と精神が修まる、そうすると、人を治める立派な人間になっていくんです。ところが、今はそれどころか子供の虐待のニュースは心が痛みますね。
——いまの時代の問題ですね。
八重幡 社会で通用する礼を教わり、楽しみも教わり、ストレス解消のための道楽もあるし、逆に放蕩もある。勉強でも仕事でも厳しいけど、昔の楽しみは、ストレスが溜まると歌を吟じたり、三味線や琴を彈いたり、囲碁をやったり、そういうのが本当の楽しみで、今は、もう何でもありでね。昔は、弓道や剣道、御(ぎょ)があって、人を御するという。(昔は、馬車に偉い人乗せて走るから、手綱を引くのはとてもむずかしいんですね。御するということを重んじられていました)今の学校の多くは知識だけ。暗記すればいい。点数がいいのは頭がいいとされているんです。そういう子供さんを育てている。多くのお母さんたちが勉強していないでしょう。実は、そのお母さんたちを育てたのは、私達だからね。われわれにも大きな責任があるんですよ。
——戦後の自由主義の履き違いと同じ話になっていますね。
八重幡 例えば、男女を平等にと言うけど、そうじゃないと僕は思うんです。チャンスは平等でいいんです。平等、平等とわかっているように言っていますが、そうじゃない。一般論では、理解と協力での女の役割、男の役割があるんです。塾で社長さんたちには、チャンスは一律に、結果は公平でなければいけない。悪いことした人、いい事した人、これは見定めてやらないといけない。平等だというとみんな一緒、働いているものも遊んでいるものもではね。小学校の運動会の競技で走っても順位を付けてはダメ、とか。日本は大きな過ちを犯しているんですね。重ねて言いたい。「チャンスは平等、結果は公平」です。

荻窪に講談文化・八重幡塾を伝えたい

——今後の活動については?
八重幡 もう極力仕事は遠慮したいですね(笑)。ところが、親しい人から持ち込まれてね。この間も、世田谷の知人のお宅から、江戸中期の書の屏風が一対、あとは龍の絵を半双、表装と修復を頼まれました。いいものだから、書の方は大事に保存しておいて、龍の方は6つの絵があるので2つずつにして、3人のお子さんに分けたらどうですか?と相談にのっています。そんなことを、遊びの合間にやっています。私の遊びは、八重幡塾と講談なんです
——講談、紅の会ですね。
八重幡 これも、私のボランティアです。この荻窪講談は毎回、杉並公会堂小ホールで講演会を開いて、この5月でもう18回になります。他にも所沢で第3回があり、それから福島県の矢吹町でも始めて、第3回目と広がりました。3・11の震災があった時、杉並区を通して南相馬へ僕のこの会で支援金を寄付したんです。私のふるさと福島県の中通りには全然なかったんです。マスメディアも含め、救援は沿岸地域だけ。でも、中通りもすごい被害で、私の生まれたところはひとつの町が崩壊したんです。そこにはスポットはいっさい当らない。だから、それから毎年の義援金は中通りの矢吹町に持っていっています。八重幡塾とか、所沢とか色んな所から義援をいただき、50万円を集め毎年お届けして、その時は被災地復興支援ツアーを組んで大勢で行っています。
——そうですか。
八重幡 自分の故郷ということもありましたが、大きな被害を見過ごされているところがあるんですね。寄付だけでなく、ボランティアもやりました。福島県の白河にだるま市というのがあるんだけど、東北三大祭の「だるま市」。ここも20年ぐらい前からボランティアでだるまを買った人に筆の金文字で「復興祈願」の願い事を8年ほど書いてあげて来ました。
——ボランティアのボランティアですね。講談も、支える人がいないとね。
八重幡 私は、荻窪講談「たのはぐ会」を主催して神田紅さんを頭にお弟子さん達の荻窪講談紅の会で応援してます。お弟子さんの神田紅葉さんが癌で、余命半年と言われて1年頑張ったんですが、「所沢講談」が最後だったんです。幕を下ろして車椅子での講座を無事やり遂げ、最後になった記念写真を撮って帰っていったんです。だから悲しかったね。一昨年の10月矢吹講談では、矢吹の町挙げて歓迎されているんですよ。神田紅さんのお弟子さんが多いです。ボランティアと言って乗越えてね。そういうわけで、講談と復興は私の奉仕なんです。荻窪に文化をということで、法人会で落語会をやってますが、あれも私が最初に始めたんです。今は青年部が継続して立派に落語会をやっています。5月9日の荻窪講談も、もう18回になりました。ボランティアと言えども運営継続は悲喜こもごも。
——最後にひと言を。
八重幡 とにかく荻窪で江戸文化の講談を皆さんに楽しんでもらいたいのと、それと八重幡塾です。上に立つものの人間学を伝えていきたいと思っています。長年お世話になり、育てていただいた荻窪への恩返しです。 
——長い時間、ありがとうございました。


●次回は

株式会社ビッグKテニス
代表取締役畠 中 君 代 氏