テニス一筋に
華々しい履歴のテニスプレイヤーから、スクール経営に
株式会社 ビッグKテニス
代表取締役社長 畠 中 君 代 氏
聞き手 松葉 襄
朝9時から、テニスボールの音が響く練馬の立野町のコート。スクールロビーにて、スポーツウエアに身を包んだオーナーの畠中君代さんと。
地元西荻で過ごした、小・中学校時代
スポーツの得意な女の子だった
——いま話題の、大坂なおみさんの大きなパネルがありすね。まずは、バックに入れて写真を撮らせて下さい。
畠中 ここでいい?
——引き立て役ですね。
畠中 えっ?
——なおみさんの引き立て役(笑)。
畠中 ラケットを持とうか?
——そうですね。いいですね…。最初から、現在のここで始められたんですか?ここは、広いコートですね。
畠中 いえ、最初は三鷹の方です。
——そうですか、ところで、畠中さんがテニスを始めたきっかけは、どういったことでしょうか?
畠中 それは、神明中学に入学した時です。はじめに全校生徒の前で先生方の紹介があって、その一人に、テニスの全国大会でベスト3位になっていた先生がいらしてテニス部があると知って、この先生に習ったら上手になれるかなあと思って、テニス部に入ったのがきっかけです。
——他の運動は考えずにですか?
畠中 そうです。小学校では、水泳とかバスケットとか、陸上とかあって、自分は運動が好きで、どれでもよかったんですが、テニス部に入ったんです(笑)。
——それからテニスの道一筋、大変素晴らしいことですよ。お住まいは、ずっと杉並ですか。
畠中 ずっと、西荻ですね。こけし屋の前です。だから、こけし屋の社長をよく知っているし、今の社長は、二代目ですね。生家は、今はビルになっていて、みずほ銀行の真ん前の角のビル。その裏にあるマンションに住んでいます。ずっと西荻の住人で、高井戸第4小学校から神明中学へと。
——西荻と言うと、骨董屋さんで有名になって、特徴のある街ですね。
畠中 西荻は夜がすごいです。今は飲むところから、食べるところからすごいですよ。うちは、西荻の駅前で文房具屋をやっていたんです。そんなに裕福でなく、6人兄弟の私が一番下です。一番上は、東大の法科だったんですけど、学徒出陣でフィリピン海戦で戦死しました。
——優秀な方だったんですね。
畠中 そうです。2番目は医者、全員大学を出ていて。両親は、大阪から出てきたんですが、子どもには学力を付けるのが一番という思いがあって、私がテニスをすると言うとすごく反対したんです。勉強しろ、勉強しろと、すごく言われましたね。スポーツなんて!と言うわけで、テニス部に入っても、ラケットを買ってもらえなかった。だけど、私は小さいときからスポーツが好きで、何かやりたい、と思っていたので…。
中学の時に優勝して、
スポーツのさかんな高校に勧誘されて
——運動神経がよかったのでしょう?
畠中 そうですね。勉強の方より(笑)。そういったわけで、なかなかラケットも買ってもらえなかったけれど、入学して秋には、もう地区大会で優勝しました。それで、ラケット券というのをもらったので、初めて自分のラケットを手に入れたんです。昔、河崎ラケットというのがあったんですが、それを。
——自分の力でラケットを手に入れた…。その時は軟式で?
畠中 そうです。硬式に移るまでは、それまでいろいろなことがありました。東京都でも、2、3年で優勝して、そうしたら、富士見丘高校が笹塚にあるんですが、そこが引っぱりにきたんです。
——目を付けられたんですね(笑)。
畠中 そうなんです、2年の時でした。その時に授業料免除というのがあって、そんなこと昔は無いじゃないですか。だけど、まだ2年なので1年待ってくれて、3年の時に、また引っぱりに来てもらって、入学したんです。
——そういう事があったんですか。ご自分では、どう思いましたか?
畠中 はじめは、ちょっと両親の反対もあったりしたんですが、最終的にはOKしてくれて、富士見丘高校に入学しました。
——優秀な人に目をつけて、引っぱるくらいに、その高校には、実績があったんですね?
畠中 東京都ではナンバーワンでした。
——当時としては、そうした条件は珍しいことでしょう?
畠中 そうでしょうね。授業料免除というのは。入学して3年で全国高校選手権で優勝して、それから、ずっとテニスをやってきましたね。
——背も高く、はじめから身体的にも恵まれていたんですね。他の運動部からも勧誘はありませんでしたか?
畠中 足も速かったんで、陸上部からは誘いがありましたね(笑)。区の大会には出ましたが、やはり、テニスが好きでしたね。
明大でも直ぐに優勝!
世界で活躍したいと硬式テニスに転向
——明治大学に進まれて更にテニスでしょう。明大に決めたのは、どういうことで?
畠中 それは、高校時代にインターハイで優勝していましたから、慶応、早稲田、青学、日体大が引ぱりに来たんです。私は早稲田に入りたかったんですが。結構、私は、小さいときから自分の人生を判断をしてきてるんですね。中学の時にテニス部に入る時も、高校は引っぱられたけど、そう。それで、高校のコーチが明治大学の監督をやっていて、習えば、もっとうまくなるかと思って(笑)、他の大学の勧めを蹴って、明治大学に自分で勉強して入ったんです。
——推薦入学というのがないんでしょう。
畠中 そうです。必死に勉強して入学したんです。それから、2年までは、そのままソフトテニスをして、推薦もないから、なかなかテニス部に入る人もいなくてね。いつでも、一人でやらなくてはいけなくて(笑)。男子の中に入って練習しました。教えたり一緒に組んだりしてね。大学選手権では1年、2年と優勝して、もういいかと思って…。
——何が、ですか?
畠中 それは、日本の代表で世界に行きたいと、そういった気持がすごくあったので、それで、3年の時に意を決して、硬式に転向したんです。
——そういうことだったんですね(笑)そのころ世界のテニス界は、だれが活躍していましたか?
畠中 ビリー・ジーン・キング夫人とかたくさんいましたよ。
——その頃、練習するところはあったんですか?
畠中 もちろんありましたが、大学のコートで毎日練習していました。女子はいなかったですね。そこに一人、飛び込んで、一人でやって、それで4年生の時に学生選手権で優勝したんです。
憧れのウィンブルドンに出場
——また、すごいですね。
畠中 それから、プロの道でテニスをしようと思って、大学に籍をおいたまま、河崎ラケットで専属プロのようなことをしたりして。そうこうしているうちに、大学を卒業して、大学のコートで男子を相手に練習をしていたんです。コートは八幡山にあって。その頃はウィンブルドンに出たり、4大大会にも出場したんです。
——あっさり言われるけど、それって凄いことですね。みな目指して果たせない憧れ、でしょう。ウィンブルドンは如何でしたか?
畠中 憧れの大会だから、すごく嬉しかったんです。一年目は予選で負けて。本当は、私は勝ったんですが、相手がトラブルを起こして、泣きわめいて、どうしてももう一回ということになったんです。しょうがないなということでやって、結局、負けちゃったんです(笑)。そうしたら、審判が、あなた来年エントリーしなさい。絶対本戦に入れてあげるからと。あなたみたいなスポーツマンシップを持っている人はいないと…。
——いい話ですね。
畠中 それは、何故かと言うと、当時、イギリスで日本が犬の虐待をしているということで新聞に出ていたんです。だけれど、日本人にもこんなスポーツマンシップの人がいるということでね。向こうの新聞にも出ましてね。それで、来年も絶対来いと、エントリーしたら、ちゃんと本戦に出してやると。それで出られたんです。
——そんな話が、あるんですね。
テニススクールのコーチの話から
トントン拍子に会社を設立
畠中 前の年は、オーストラリアオープンとか、全仏や全米など、4大大会に全部出たんです。それで、そうしている間に、会社の問題があるんです。プレイ選手でしたが、河崎ラケットが日本橋三越の本店にテニススクールを出すけど、私に経営をやらないかという話が来まして。ちょうど、今の皇太后様のテニスでブームが到来していたんですね。私は西荻に住んでいて三鷹のコートだったんですが、「いいですよ」と引き受けて。そうしたら、すごい人が来てくれて、上手くやっていたんですが、今度は、銀座の松屋がリニューアルで、屋上で何かやろうと、じゃあテニスコートを作ろうという話になって、また私にスクールをしないかと言われて、それも、やり始めたんです。
——もてもて、ですね。
畠中(笑)そうなんです。それと共に松屋の中にテニスショップができて、テニスブームでした。それが、会社を設立するきっかけだったんです。昭和47年に設立したんです。卒業して5年後ですかね。わりとトントン拍子に事が運びました。有難いです。
——本当に、トントン拍子ですね。
畠中 一番最初は、大学の後輩がコーチに来てくれて、それでショップをして、また社員を入れて今は、社員は10人ぐらいでやってます。
——これだけ、大きくコートを持つのは、大変でしたでしょう?
畠中 これは借りているんです。向こう側のはテニスクラブで、地主さんがやっていて、たまたま、こちらは生協の駐車場だったんで、紹介してくれる人がいて、じゃあ、ここはスクールをということで、コートにして、私がスクールをすることになったんです。
——それにしても広い。何面あるんですか?
畠中 スクールの方は3面、クラブの方は5面です。
錦織、大坂なおみの活躍で
テニスブームの到来?
——現在、錦織圭と大坂なおみのお二人の活躍で、日本のブームがまた起きていて、タイミングはよかったですね。
畠中 そうです。小さい子に関心があって。以前は、大学の同好会が盛んだったけれど、ずいぶん寂れて、なくなったわけではないですけど、一時のブームはないですね。今は、スポーツは、高齢者と小さいお子さんが多くなりましたね。若い人は何をするかというと、今、いろんな事ができるじゃないですか。外に出て真っ黒になってスポーツをやるという時代ではなくなったんです。女の子は今はダンスだったり、歌ったり、ゲームをしたりという、そういう時代になってしまって。
——それが時代の流れですか。それでも、テニスブームに乗って…。
畠中 それが、会社では、ちょっと危ない話があってね。
——何が、あったんですか?
畠中 大家さんがクラブをやめるというので、いまのうちで借りてるコート3面では、経営的に難しいと…。幸いに、クラブも会社で使ってよいとなって、クラブ経営することになり、使うことができてほっとしました。
挫折はあったものの、
これまでは順風満帆の人生
——これまでのお話からは、人生全て、順風満帆。ご苦労されていることは何一つないように見えましたが。
畠中 そんな話が、持ち上がりましたが、私、苦労は、ほんとうは、あまりないんです(笑)。それでも、これまで挫折は2、3回ぐらいありましたね。
——そうは見えませんが…。健康面も、よいようですし…。
畠中 それが、あるんです(笑)。変形性股関節で手術して、金具が入っているんです。テニスのやりすぎですね(笑)。
——そうですか。
畠中 それ以外は、健康面では大丈夫です。やっぱり、それはありますよ(笑)。苦労の一つは、自分で商売していく中で、スタッフの社員が2人ぐらい急に辞めたことです。商売でのことは、それくらいかな?
——失礼ですけど、どこにでもあるような話ですね(笑)。
畠中 あと、自分のテニスでは、東京で、ユニバーシアードという大学選手権があったんですが、その時に、私は、前の年に学生選手権を優勝していましたけど、その時は、予選に行って一度も勝てなくて…。
——それは、初めてですか?スランプで?
畠中 そうです。
——それって、皆さんが経験されることでしょう。ビックリしました。もっと大きな挫折を想像しました(笑)。
世界に通用するプレイヤーたちの
ジュニア時代を支えた経歴も
畠中 それまで、私の人生では挫折はなかったから(笑)。スクールからは、これまでプロの選手を、14人を育てています。スクールとしては、よいと思いますが(笑)。
——そうでしょう(笑)。スクールは、やはり、自分の経験を元にすると思いますが、松岡修造のスクールなど、ありますが…。
畠中 やっぱり、経験なり、キャリアが必要でしょうね。松岡修造さんは、彼がジュニアの日本代表の時に、私がコーチでアメリカに連れて行ったんですよ。彼が14歳以下のクラスでしたが。
——そうでしたか。その頃から彼は、目立っていましたか?
畠中 変わってましたね。マイアミに着いたのが夜だったんですが、迎えが来なくて、しばらく空港で待っていたんです.そうしたら、平気で寝ちゃうんですよ。地面に(笑)。「修造、そんなところで寝ると風邪引くからダメ!」って言ったら、「眠いからしょうがないもん」なんて言ってね。お父さんは、東宝映画の社長、お母さんは宝塚出身で、小林一族と言って、宝塚を作った一族の親戚なんです。今は、伊達、杉山、みんな知っていますよ。
——沢松さんは?
畠中 沢松のお母さんとは、私と一緒に日本代表として、出場していました。直子はお姉さんの子どもさんです。
——畠中さんのキャリアは、それを聞くだけでも、ページが足りない(笑)。これまでテニス界を支えてきた?
畠中 私は、今は、役員じゃないんです。ちょっと国際大会の委員長を、4年ぐらいやりましたけど。
ボランティアにも力を入れて
——昨年、ジェイコムTVの「すぎなみ人図鑑」というのに出演されているのを見て、その中で「人生は楽しく!」と言われていましたが、お話を伺っていると、いろいろと、ずっと楽しんでいらっしゃるようでね…。
畠中 そうです。ボランティアもね。
——どんなこと、されてきたんですか?
畠中 昔、「鐘の鳴る丘少年の家」という連続ラジオドラマがあったんですが、戦争が終わって親がいないとか、生活のできない恵まれない子どもたち、あとは、何かあって生きていけない子どもたちを集めて、収容したホームがあって、そこを舞台のドラマで大ヒットしたんですが、そこを卒業していく子どもたちが就職して、アパート借りるのに補助をしていました。それと、そこにいる子どもたちが、テニスをしたり、卓球をしたり、剣道したり、柔道するという時に、お金がないじゃないですか。そういう費用を私が出してあげているんです。
——それは、大きな社会貢献ですね。どのくらい続けているんですか?
畠中 もう、5年か、6年ですね。毎年決まったお金を届けてきました。
——すばらしい。鐘の鳴る丘の施設は今もずっと続いているんですね?
畠中 続いています。前橋の大胡町というところで。私は、毎年こどもの日には必ず行ってます、前橋市長などが来て。高野ゆりさんも、小さい時に関わりあって、かなりの額を寄付されているんじゃないかな?
——すごいですね。
畠中 すごいですよ。体育館も作りましたしね。その体育館を作った時に、そこでテニスをしようということになって、そこに、私が呼ばれて行ったんです。そんなつながりですね。
——テニスで、人生が広がっていったんですね。
畠中 そうです。だから、最後に社会貢献をと思っていて。もう一つは、大学のオリンピックに出られる選手の支援もしています。
——今回のオリンピックは、テニスは楽しみですね。
畠中 大坂なおみと、錦織がいるから(笑)。男女共にいい選手が出てきて期待していますよね。
荻窪法人会でも力を発揮
——畠中さんは、テニススクールだけでなく、また、その他いろいろとご活躍ですね。荻窪法人会との関わりも…。
畠中 今度、元会長の小竹さんから、講演をやってほしいと言われてまして、今日のインタビュー、ここでおさらいしていた感じです(笑)。こんな感じで大丈夫かな?(笑)
——会員として、古いんですか?
畠中 組織委員会があって、3年から5年ぐらいやって、会員さんをたくさん入れているので、毎回、表彰されているんです。7社も8社も。うちの近辺の知り合いにね。法人会入っていますか?法人会知っていますかって、声を掛けて。なんですかそれ?と知らないので、こういうのがあるんですというと、結構皆さん入ってくださって。かなり貢献しているんです。
——優秀な営業マン?ですね。
畠中 荻窪百点さんとも、法人会でお会いしましたね。黒い大きなのがいると思われたでしょうね(笑)。
——異業種交流会でもお会いしましたけど、一番目立っていましたよ。
畠中 ここは、練馬区になるんで、本当は荻窪の法人会ではないと思われますが、私の会社の本社は杉並区にあって、税金は荻窪税務署に払っているんです。
——スクールのコートが練馬区で、どういうふうになっているのかと思っていたんです。そうなりますよね。
畠中 だけど、ここに来る人は、荻窪とか、西荻といった方たちですから。だから百点は、置いておくと、皆さん持っていきます。皆さん見ている。
——有難いです。よろしくお願いします。
畠中 だから、今度、これに出ますよといったら、もっとたくさん持っていっちゃう(笑)。
——これを機会によろしくお願いします。
軽井沢国際テニス大会を主催
——ボランティアもいろいろですが、どんなに過ごされるんですか。
畠中 今は、あまり会社に来ていないんです。ほとんど、現場でコーチはしていません。若い社員に任せていますから。
——それも、いいですね。
畠中 今、女の子が通りましたでしょう?あの子に、土、日曜日に、ちょっと教える程度かな?
——経営者としては、他にやることは多いでしょうね。
畠中 今週の日曜日から、来週、軽井沢国際テニス大会があるので、そこに一週間行かなくてはいけないけど、それが、私のする一番大きなイべントです。
——その主催者として?
畠中 そうです。私が主催しているんです。
——すごいですね。どういう人が、参加できるんですか?
畠中 世界中から来ますよ。ランキングが欲しい人が。
——現在は、幾つも大会があってすごいですよね。
畠中 そうですね。私が、協会にいた時に大会は5つくらいしか無かったのが、いまは10以上の国際大会があります。5月は、岐阜、福岡、久留米、それで今度の軽井沢、うちなんです。
——大会のランキングを決めるのは、格付けの基準はあるんですか?
畠中 それはポイントですね。金額によって。うちは250万ぐらいなんですが、前やっているのは、800ドルぐらいから500ドルぐらいかな?
——こんどの大会は、軽井沢と提携して?
畠中 そうです。軽井沢町とね。若葉まつりというのがあって、それの一貫として開催しています。
——何人ぐらい参加されるんですか?
畠中 大体、予選で64人、本戦で32人、ダブルスもあるので、100人ぐらいですかね。決勝のときは、観客は200人ぐらい来ますね。風越公園といって、現在のカーリング場があるところでやります。長い間やっているけど、賞金は集めるのですが、それが大変です。
——そのための、寄付を募っているんですか?
畠中 そうです。結構、荻窪法人会の方も皆さん寄付してくれて、ありがたいです。テニス関係の会社では、多額なお金を寄附してくれているところもあります。今年は、日本協会も出してくれるし、みんな応援してくれて、わりと楽になったんですが。初めは、お金がなくて赤字で大変でした。19日から朝一で行かなくれはいけない。
ほどほどに忙しく、
元気で楽しく生きていこう
——今は、ほどほどに忙しく?
畠中 そうですね。今は、大学の評議員をしています。
——夜が多いんですか?
畠中 だいたい、夕方からの集まりが多いですが。そういえば、今度の荻窪法人会の講演では、「スポーツを通して世の中を豊かに」というテーマで話をするつもりです。その話と、自分のこれまでの人生を話をしようかなと思っています。
——経営だけでなく、これからもコートにはお立ちになるんでしょう?
畠中 これからですか?人生終わったわけではないけど、目標も何もないんです(笑)。元気で楽しく生きていこうと…。やるべきことはやってきたので、あとは。
——なかなか、そう言い切れませんよね。まだまだ、コートに立って…。今日は、本当にありがとうございました。