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「荻窪の記憶」にとどめよう主婦たちの声
核廃絶を世界に訴えた署名運動
「杉並アピール」は、荻窪が起点だった

松 葉 襄


 読者から「原爆の図・第10部〈署名〉を見よう」の展覧会の案内を荻窪百点に載せて欲しいという依頼があった。『署名』を展示する杉並区民の会と杉並区が共催だ。
 「原爆の図」といえば、丸木位里・俊ご夫妻の描く原水爆禁止への思いの連作。私は、子どもの頃、その絵を見て、強烈な原爆の未知なる恐怖を憶えたことを思い出した。あれから何年たったのだろう、もう、記憶は遠くになっていた。
 全国各地で開催されてきた「原爆の図」の展覧会。今回は「第10部・〈署名〉」をテーマにセシオン杉並で開催されたのだが、杉並区では初めての催しという。それを聞いてこれまで開催されていなかったことは驚きだった。
 それというのも、核廃絶運動へのきっかけとなったある事件から、世界を原水爆禁止運動へと動かした「署名運動」の起点が、この杉並にあったからだ。

 ある事件とは、まだ記憶にとどめる人の多い、あの水爆実験による「第五福竜丸事件」である。
 昭和29(1954)年3月、北太平洋のビキニ環礁で行われた水爆実験は、岩上に立てられた約50メートルの鉄塔で水爆を爆発させたものであった。この衝撃で島に直径500メートル深さ100メートルもの大きな穴があき、そこから莫大な量の珊瑚礁のかけらと粉末を空高く吹き飛ばしていた。
 この水爆の爆発力を、通常のtnt火薬に換算すると、1500万トン(15メガトン)の威力をもつといわれ、昭和20年に広島、長崎に落とされた原子爆弾の威力が2万トン(0・02メガトン)相当というから、この実験の水爆が、いかに想像を絶する恐ろしい威力があったかを知ることができる。ちなみに、世界を巻き込んだ第二次世界大戦で消費された全火力が、7メガトンと言われている。
 事件の発生は、昭和29年3月の未明。マグロ漁船第五福竜丸が、23名の乗組みでビキニ環礁の東方灼150キロメートルで操業中におこった。
 南西方向水平線上に閃光が、数分後に爆発音が聞こえ、約3時間後に白い灰が降り、甲板を覆ったという。これが、後に「死の灰」と言われる。そして、二、三日後に乗組員全員が頭痛と吐き気に襲われた。原爆症(急性放射能症)の発症と診断された。東大附属病院と国立東京第一病院に全員が収容され、医師団を結成し治療に当った。手当ての甲斐なく、その時、甲板で様子を見ていてまともに死の灰をかぶった通信長の久保山愛吉さん(当時40歳)が被爆後、半年にして死亡した。これにより、ことの重大さを改めて知ることとなった。
 第五福竜丸が操業していた位置は、アメリカ原子力委員会が指定した広い航行禁止区域の境界から、更に30キロも離れた爆心から約160キロでの操業だった。
 このビキニ事件は55年1月、米政府が法的責任を問わない「見舞金」として計200万ドル(当時の価値として約七億200万円)を乗組員らに支払うことで政治決着をした。しかし、54年の6回にわたる一連の水爆実験で被災した船員の数は、国内で約1万人とも言われている。
 ところで、第五福竜丸が母港の焼津に戻って以降、被害の波は、津波のように、次々と襲ってきていた。
 「死の灰」の影響は、想像以上に広い海域であった。操業していたマグロ漁船が次々に帰港。太平洋岸の五つの大漁港で確認した汚染漁船だけで312隻を数えた。その他の漁港で確認されたのが371隻あり、総数683隻にものぼった。そして、これらの漁船の水揚げは、延べ485トンにもなり、全てを汚染されたと認定し破棄処分とされた。それからというもの、安全と思われるマグロの入荷は激減し、魚価は暴落を続けた。
最初は、体の表面に限られていたものが徐々に内臓に見られるようになり、海域も当初は赤道付近に限られていたが、次第に、日本近海に広がってきて、北緯40度以北にまで広がり、地球北半球の四半分を汚染していた。
 こうした事態の中で、「放射能汚染のマグロはゴメンだ」の声があがり、大きくなっていった。台所を預かる主婦達の切実な声として、放射能の恐ろしさを訴え、原水爆を反対する機運は、次第に全国で高まっていった。
この流れに、荻窪は、大きなかかわりをもっていた。それも、そのきっかけをつくったということを記憶にとどめておきたい。
 それは、荻窪にあった杉並区公民館での主婦達の小さな勉強会にはじまった。
安井郁公民館館長(法政大学教授)による第五福竜丸事件の勉強会で、放射能汚染の怖さを知った主婦たちが、原水爆禁止へと立ちあがったのは自然な成り行きだった。中でも魚屋のおかみさんの訴えは、放射能に汚染されたマグロは売れない暮らしに直結した問題を抱えていた。「これではいけない、何とかしなければ」と皆が考え、そして起こしたのが、水爆反対の署名運動だった。
 今回の「原爆の図」の展覧会でも「署名」を主題とし、とりあげていた魚屋のおかみさん。大きく喧伝されている印象となったが、勉強会に参加した全員の思いであったこと、そして、署名運動にはじまり、それが大きな運動にまでなったことは皆の力と記憶にとどめたい。
 ここで特筆したいのは、状況として、今とは全く、核に対する環境が違うということである。当時は、東西冷戦の真っ最中、米ソ共に核武装が絶対で、水爆開発を競っていた、そうした中でのビキニ礁での実験成功であった。これまでも、イデオロギーの面からも、そうしたことを、主張どころか口にすることも場合によっては憚られた時代であったことだ。一人だけの声だけでは押しつぶされたであろう勇気のいることだった。
 ここで、こうした流れを推進した安井郁館長のエピソードを紹介しておきたい。
 そうした時代的背景の中で、原水爆禁止、平和への道筋をどう築くかである。まず安井館長の最初にとった行動は、長野県別所温泉にある天台宗常楽寺の半田孝海大和尚を訪ねたことだ。ちょうど、和尚が世界宗教者平和会議を日本で開催しようと大会誘致に取り組んでいることを知ってのことだった。半田孝海大和尚は天台宗比叡山のナンバー3で、将来はトップと見られていた。しかし「赤坊主」と揶揄されながらも「俺は赤でもない黒でもない中立だ、平和のために」とデモ行進でも何にでも、常に先頭にたち活動を続けていた。後に開催された、第一回原水爆禁止運動会議では議長を務めた人でもある。安井郁館長は、この人と会えて大きな力を得ている。
 これには、もうひとつのご縁もあった。戦争中、戦況厳しくなり、われわれ桃井第二国民学校の学童は、別所温泉に学童疎開をした。そこに常楽寺があった。そして、疎開学童の中に、安井氏の長女の方がいらして、安井氏は何度か別所に行って、その折、このお寺の半田住職に会っていたことだ。
 原水爆禁止を訴える、荻窪での主婦の起こした運動は、大きな輪となっていった。そうした動きに呼応するように杉並区議会は良識を持って原水爆禁止の決議をした。これにより、この運動を推進するために、同年5月、原水爆禁止署名運動杉並協議会が結成され、世界の運動へと大きく歩をすすめる事ができた。これが、後で有名になった「杉並アピール」で、運動の輪は更に大きく全国に、世界に広がった。そして、昭和30年8月6日、広島で、第1回原水爆禁止世界大会の開催となった。それは10年前の原爆投下の同じ日だった。この頃には、国内の署名者数は3千283万人を数え、全世界では6億7千万人にも達している。
 この一連の運動をもって杉並区は、「杉並区平和都市宣言」をする。記念像として佐藤忠良作「ジーンズ」が、区役所西玄関に設置された。
 杉並区平和都市宣言
世界の恒久平和は、人類共通の願いである。いま、私達の手にある平和ゆえの幸せを永久に希求し、次の世代に伝えよう。ここに杉並区は、核兵器のなくなることを願い、平和都市を宣言する。
昭和63年3月30日 杉並区
 そして、原水爆禁止運動発祥の地としての碑(オーロラの碑)を、旧杉並公民館跡地に設置した。
 荻窪の公民館での主婦達の勉強会に始まった核廃絶への歩みは、署名運動から世論を動かし、大きな運動となった。そして、55年8月の広島の第一回原水爆禁止世界大会の開催となり、大会後、生まれた原水爆禁止日本協議会(原水協)により毎年世界大会が開かれるようになった。しかし、政治協力各派の間の対立が表面化して、63年の米英ソ3国による「部分的核実験停止条約」の評価を巡って共産党、平和委員会系と社会党、総評系とが分裂、後者による原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が結成されると、以降、2つの世界大会が広島を中心に開かれてきた。この不自然さに、77年8月、両者は話合いで合意し、世界統一大会が開かれるようになった。しかし、大会をめぐり両者の間に意見の隔たりがあって、完全統一が難しいのが現実のようだ。
 どうして、杉並アピールのように主婦の願いのように純粋性をもって、核の廃絶を願い、そして恒久の平和を訴える事ができないのだろうか、不思議である。