表紙に寄せて/329
JR中央線、今年は開業130周年
もくもくと、煙を吐いて汽車は走った
写真と文 松葉 襄
JR中央線が、甲武鉄道として開業してから、今年で130周年を迎えた。
それをアピールする、デザインされたヘッドマークとボディ側面にはラッピングした記念車両が走っている。それに気付いた人は、何人いたのだろうか。と言うのも、本数の多い中央線に、一編成だけだからだ。
記念の車輌を撮ろうと、荻窪駅らしさ、陽射し、ポジショニングを考え、そして天候が悪かったこともあって、3日もかけてしまった。
あって当たり前に利用している中央線。だが開業する、それなりの歴史に面白いエピソードがいろいろと残されている。
JR中央線の前身は、甲武鉄道。甲州と武州をつなぐ構想であったが、実現に至ったのは、神田佐久間町に住む元神奈川県知事井関盛良らによる計画であった。当時、日本の輸出の花形であった八王子の絹製品を輸出港の川崎港へ運ぶ輸送路というものであった。そのためには、現在でいう八高線ルートなどもなど計画申請されたが、いずれの路線計画も許可がおりず、計画は、次々と変更されていった。紆余曲折、現中央線となった原計画といえば、甲州街道を走らせるというものであった。
まだ、馬車鉄道が全盛を誇っていた。
しかし、海外からの最新情報によると、もう、その時代は過ぎて、汽車鉄道の時代だと知った井関盛良らは、汽車鉄道導入へと大きく計画の舵を切った。
この計画許可が下りて、計画を進めていくのだが、大きな抵抗にあうことになった。
甲州街道沿では、汽車の吐き出す火の粉に火事の危険があるとか、蚕農家が多く、煙による蚕への悪影響を心配するなど、噂は広がり鉄道反対が大きなうねりとなった。事実、当時の列車用石炭は質が悪く、煙をもくもくと吐いて火の粉を撒き散らしながら汽車は走った。開通後の荻窪でも、火災の被害があったという記録もある。
さらには当然ながら、甲州街道を走る馬車鉄道会社や高井戸宿からの、お客を取られるからという猛反対もあった。そのため計画は、沿道の理解を得るに
いたらず頓挫。計画は、現在の中央線ルートへと変更されたということは、よく知られるところである。
甲武鉄道が、汽車鉄道として先ず開業したのは、全線ではな
く、立川~国分寺~堺~中野~新宿間であった。
予定された期日までの全線完成は、工事の大幅な遅れで、断念しなければならなくなったからだ。それでも鉄道会社は、なんとしても、「小金井の桜を観に行く客をつかめ」との厳命のもと、夜を徹しての工事をした結果の区間の開業だった。当時、桜の名所の小金井には開花時には市中から、かなり大勢の人たちが花見に訪れた。その客を見込んでの4月の開業だった。
遅れて、無事、八王子まで延長しての全線開業は、明治22年8月となった。甲武鉄道の誕生である。
この全線開通にもかかわらず、鉄道会社としては、諸手を揚げての喜びではなかったようだ。最も欲しい駅である荻窪駅がなかったからである。
甲武鉄道として、唯一貨物専用駅を併設し、青梅街道と交差した絶好の立地条件の荻窪に開業して、将来に大きな期待をしていたのである。青梅街道を利用して駅に集まる貨物を見込んでいたからだ。それにもかかわらず、駅の開業が遅れた理由は、何だったのだろう。
それは、駅用地の取得が遅れたことにあった。
事業を進めることに、賛成反対は付き物で、荻窪駅に関しても例外ではなかった。駅用地を広く提供した宇田川冶朗吉さんを筆頭に、同じく提供した光明院らの鉄道誘致推進派に対して反対派もあって、計画を思うように進める事が出来なかった。当時、鉄道用地は全て地元の献納に頼っていた。そこに駅舎を予定した用地の地主が承知しなければ、どうしようもなかったのだ。その予定地には、寺子屋を生業としていた塾頭の加藤佐五左衛門の畑があった。話を断り続ける加藤さんのもとへは、鉄道会社はもちろんの事、戸主(村長)や村のお役の人たち、親しい友人も、何度となく足を運び説得をしたが応じなかった。
ようやく分かったその訳は、「鉄道会社の求める一反部の畑を差し出せば、自分の暮らし向きがなり立ちませぬ」ということだった。
そこで、鉄道会社が、何とかということで考え申し出た提案は、「駅に待合茶屋をつくりましょう。その営業権をあなたにだけ与えます」というものであった。鉄道会社は、そのために、当時一番に栄えていた上野駅の待合茶屋へ加藤さんを案内して説得している。その条件に、加藤さんも、ようやく承諾し、これをもって一件落着。工事がすすみ、駅南口を開設することができたのである。
この待合茶屋が、後に、駅南口前に移り営業した、蕎麦店の稲葉屋である。荻窪最初の飲食店であった。
こうして、荻窪駅が開業できたのは、甲武鉄道が全線開通して2年後の、明治24年12月21日であった。
この日の新聞にはニュースとして、新宿駅構内にキツネが出没したと報じている。
荻窪駅は。国鉄時代に駅開業100周年を迎えたが、駅員が開業当時の制服で業務するパホーマンスがあり、街とコラボした大イベントがあり、さらには松葉襄写真コレクションによる「甲武鉄道・荻窪駅の歴史写真展」などで、大いに盛り上がった。
現在、荻窪のまちは、荻窪駅を中心の発展をしており、杉並区もそのような将来図を描いている。これまでの荻窪駅の発展を改めてみると、その後に開設された駅北口、駅西口もまた、地元土地所有者の協力、また犠牲によるものであった。
時代の節目に、こうした歴史を記憶にとどめながら、更なる街の発展を求めていきたいものである。
写真と文 松葉 襄