文化に包まれて、大きく発展
創業70周年を迎えた西荻の老舗
「こけし屋」
大總商事株式会社 代表取締役社長
大 石 剛 生 氏
聞き手 松葉 襄
「こけし屋」といえば、地元・西荻の人のみならず、多くの都民に知られている洋菓子・フランス料理のお店である。今年創業70周年を迎え、なお、その存在感を示している2代目・大石剛生社長にお話を伺った。
地元・西荻で愛された「こけし屋」
――前回、ご登場いただきました畠中社長が、「今度は、ぜひ、こけし屋さんに」ということで…。
大石 そうです。そう言われてね(笑)。
――まず、「こけし屋」さんの歴史からお話を伺えますか?
大石 私は2代目で親父の大石總一郎が創業者だったんですが、今年で創業70周年になります。まず本家というのが、春日神社の前で農家をやっていて、うちの親父は次男坊だったので、私のおじいさんに、この土地に建物を建ててもらって、そこで商売を始めたんです。昔は、全部長男が継いでいましたから、その代わりに、ということで、生前にもらいました。ここで大石商店として、足袋などを売っていたんです。
――その商売を…。
大石 ところが、父が6歳の時に父親が亡くなって、母親も親父が8歳の時に倒れてあの世にいってしまって…。それで本家に預けられて、そこのおじいちゃんに結構可愛がられたようです。それでも、居候の身、肩身が狭かったので、昔は読み書き算盤ができればどこか雇ってくれるということで、国立にある都立の第五商業高校に入って、妹を連れて独立しようと考えたんです。ところが、今は新宿の駅前の柿傳という懐石料理をやっている親戚のおじさんから、「これからは大学を出なければだめだ」と強く言われ、それで奨学金をもらって早稲田大学の政経学部に入学したんです。
――その親戚のおじさんの言葉で、大きく変わることになりましたね。
大石 そうです。むちゃくちゃ怖い人だったようですけど(笑)。それで変わったのか、大学では雄弁会に入ったんです。これは私の推測ですが、ずっと居候で肩身が狭い思いをしていた若者が、大隈講堂で話すと、みんなが自分の話を聞いてくれるので、のめり込んだんでしょうね。その時の仲間にその後有名になった政治家が多くいて、2年後輩には元総理の海部俊樹がいたりしました。
――錚々たるメンバーに囲まれていたようですが、生活の方はどうしていたんですか?
大石 基本的には昼は学校に行って、夜は、親父のいとこがやっていた甘味喫茶で働いたんです。戦後のことですから、闇市で買ってきたサントスコーヒーを出していました。そうした時に、叔父から「親が倒れたので新宿に戻る。お前、ここができるか」と聞かれ「できる」と答えて喫茶店を引き継いだんです。早稲田の学ランを着て、帰ってきたら、ワイシャツになってコーヒーを入れるところから始めたようです。
大学生が始めた洋風の喫茶店
――大学生が喫茶店をやるというと、大変だったでしょうね。
大石 そうです。戦後すぐのことでしたので。この店のところは倉庫でした。駅前にヤミ市があって、この辺には和風喫茶がたくさんあって。うちの親父は、学生の分際で理屈ばかり言って、お前なんか真っ先に潰れると言われたそうです(笑)。親父は学生だし、当時、和風の喫茶店はたくさんあるから、競ったら負けると思い、違うことをしようと、洋風の喫茶にしたんです。
――若さですね。
大石 まずは、コーヒーが流行っているからコーヒーを出そうとしましたが、コーヒー豆を買ってきたはいいが、どうやっていれたらいいのかわからない、といった状態から始まって(笑)。
――それは、それは。
大石 それなんですが、店の近くに石黒敬七さんがいて、戦前に、フランスに柔道普及のために行っていて、飲んだことがあると聞いて、いれ方を聞きに行くと、「俺は飲んだことはあるけど、作り方は知らない」というんで、茶こしに入れてみたり、砕いてみたりして(笑)、持っていくと「こんなんじゃない」と言われ、そういったやり取りから、始めたようです(笑)。
――まさに手さぐりで始められたんですね。
大石 何とか、コーヒーでお金をもらえるようになってから、コーヒーに羊羹やぜんざいは合わないと、それで洋菓子が作れる人間を探して、一応、洋菓子とコーヒーのお店という「こけし屋」の原型がこの時できたんです。
喫茶店で開いた文化講座が
文化人の溜まり場になった
――その頃には、銀座や新宿にもあったんでしょうね。
大石 でも、西荻には洋風の店はなかった。ケーキを始めたのは、昭和23~24年くらいですかね。
――甘いものの統制で、誰もが欠乏していたから、ヒットしたでしょう?
大石 最終的に、28年に、フランス料理までたどり着いたんですが、そういったときに、どうせ大学生がやるんだったら、他のところと違うことをして目立たないということで、1階は喫茶店、2階が木造二階建てだったんですが、当時この辺りの文化人の方々が、都心に戻ろうとしていたけど、まだ家がないから帰れない。だからうちをたまり場にしていたんです。絵描きや作家の人種は、お金を稼ぎたいけど、汗して働くことはしない人たちですから、昼間からやることなくて、ブラブラしていたらしいんです。親父はコテコテの商人の気質があったので、2階は畳敷きだったんですが、この場所を遊ばせておくのはもったいないと思ったんでしょう。それで、文化講座と題して、空いている2階に講師の先生を呼んで、ケーキとコーヒーを出して、その上がりを全部先生にあげるということを始めたんです。
――その文化人の集まりが、カルヴァドスの会になるんですね。当時の大人たちは思いつかない。学生だからこその発想ですね。
大石 そうです。名前もこけし会と名づけて始めたあたりから世の中が良くなってきて、先生たちが都心に戻って、ラジオに出るようになってから、先生たちが、こけし屋で飲み食いしていたと話をされて、それが結構宣伝になったようです。
こけしの会からカルヴァドスの会に
――こけし屋という名前は、どなたがつけられたんですか?
大石 名前を何にしようかという時に、日本は敗戰しましたが、国敗れて山河ありじゃないですが、将来的に日本文化は復活するから、その時に日本文化を忘れないような名前がいいと、その時お客さんが置いていったこけしを見て、こけし屋にしようと(笑)と。そして講座もこけし会になりました。
――こけしがたくさん飾ってありますね。
大石 みんなお客さんが置いていったりして。持って行く人もいたけど(笑)、だんだん増えいったんです。
――こけし会は、どうなりましたか?
大石 そうですね。昭和24年に始まりまして、58年まで続きましたが、こけし会も100回を数えるのに際して、親父は、これまでの知識人だった人を集めた新たなスタイルの会を模索し、石黒敬七氏に相談して、「カルヴァドスの会」というのを発足させたんです。
――カルヴァドスは、どうしてつけたんでしょうか?
大石 昔、人気の映画、レマルクの『凱旋門』にも出てくるフランス製の林檎酒です。大いに飲み、かつ歌って踊って交友を深めようという趣旨だったようです。どんちゃん騒ぎをしていただけでね(笑)。
錚々たるメンバーが集まった
カルヴァドスの会
――いろんな人がいたようですね。
大石 そうです。石黒敬七氏が初代の会長で、二代目は紀伊国屋書店の田辺茂一氏、ヘッセの翻訳で知られている高橋健二氏が三代目でした。
――錚々たるメンバーでしたね。
大石 みんな飲んでベロンベロンに酔って、駅のホームで寝ている人もいたりして。ついには、荷札に住所と名前を書いておいて、そのタグを見ると、こけし屋さんの帰りだと駅員さんの間でも有名な話だったようです。
――会は盛会になって…。
大石 そういったことで毎月は大変で、月に1度から、年に1度の12月に定期的にやるようになりました。先日、お袋がまとめて本にしましたが、初めのころは親父は学生服を着ていますね。こけし屋の包装紙の絵をかいていただいた鈴木信太郎も常連でした。親父には親がいなかったから、親代わりだという人がけっこういたみたいで。
――可愛がられていたんですね。白山神社の脇に住んでいた人ですね。その後、棟方志功さんが住みましたね。
大石 そうでしたか。他にも、文壇でデビューする前の松本清張もドテラ姿で来ていました。11時オープンで夜9時までやっていましたから、昼にカレー、夜に牛肉の煮込みを食べて、原稿を閉店まで書いていました。後に写真をいただき、額の裏に「お世話になりました」と絵を書いてくれたんです。
――お店を70年もやっていると、いろいろ貴重なエピソードがありますね。森繁久弥さんもメンバーだったとか?
大石 そうですね。林家喜久扇さんに司会をしてもらったり、今の円楽が出てきて、おれの後はお前がやれとか(笑)。最近でも、個室があるので、取材の時によく利用されています。亡くなられた、さくらももこさんは、こけし屋のケーキのことをまんがの中で書いてくださって。あと、柳田國男さんが神明中学附近に事務所を持っていて、うちを指定して取材されたりしていました。
――歴史を感じますね。
母親がまとめたカルヴァドス会の本
大石 カルヴァドス通信も回を重ねて33回で、寄稿内容は全くの自由で、ふと思い立ったことを書いたものが多いです。それを母親が本にまとめまして…。――カルヴァドスの会の資料はたくさんあったでしょう?
大石 写真や資料がダンボール3つくらいになって、1000枚ぐらいの膨大な写真が残っていたのを、今年で84歳のお袋が80の手習いで全部1枚1枚データに残して1冊にまとめたんです。パソコンをいじったことがないのに買ってきて、スキャナーで全部読み取って、データ化して。写っている人がわからない場合は、何人かで写っているから、わかっている人に聞いていくんです。例えば隣にいる伊藤整の息子さんに連絡して聞いたりしてね。母親はまだぼけていないし、口も達者なんです。
――カルヴァドスの会と言えば、荻窪とはご縁があって。
大石 そうですか。どんな…
――世話役をやっていた、荻窪に住んでいた詩人の竹下彦一さんで、会の歌の歌詞を書かれて…。杉並音頭なども書いてます。それがご縁で、荻窪に地域交流会「三つの神の会」が出来ました。お酒の神ヴァッカス、美の神のビーナス、音楽の神ミューズをあがめようというユーモアあふれる交流会です。私が事務局長で、新しく出来た東信閣で毎年やりましたが、お誘いしたら、井伏さんが毎回出席されてね。
大石 それも素晴らしいですね。
――そのとき、「私が荻窪のことを書いてくださいと頼んだことで,「荻窪風土記」が生まれたんです。
先代から受け継いだ
店舗を増やさないこだわり
――お父様から継いだ商売は、どういう取り組みで進めましたか?
大石 「商売は、自分がどなって聞こえる範囲じゃなくてはダメだ」というのが持論でしたね。昭和30年代頃ですが。他にフランス料理を始めたときは、銀座にしかフランス料理店はなかった。小さい時に覚えているのは、ラーメン屋じゃないのに、平日に行列を作っているんです。昔の別館の2階がレストランだった時に、レストランの階段から1階の全部待合室のようになっていて。
――それはすごいですね。
大石 当時、階段の下に池を作っていたんですが、釣り堀で釣ってきた金魚を、子供にあげていました。そういった時代でした。ケーキも、オーソドックスなケーキが飛ぶように売れた時代でした。今はこれだけ競争も激しくなってきて、生き残るのも大変ですが、その時に、親父が言っていたのは、いろんなところにお店を出してチェーン展開をしている店もありましたが、うちは1店舗だけでやっていくと。そして、そのようにしてきたんです。
朝作って、その日のうちに売り切る
――今はタウンセブンの地階に店を出して。
大石 そこに1店舗だけ出していますが、朝、ここで作ったケーキを運んで行って売って、売り切れで終わるという形をとっています。何カ月も前に作ったものを冷凍して出しているお店もありますが、うちとやり方がこんなに違うんだと驚きましたね。基本的にそういったやり方で、何とか生き残れたんじゃないかと思っています。
――1店舗でやられてきたからできたことですね。
大石 結果論ですが。バブルがはじけて結構大変だった時に、自社ビルでやっているから、まあ、なんとか生き残ってきたかな?と思います。それと、うちのケーキは値段が安いんですよ。千円札があると、3つ買える値段なんです。お父さんが家に帰る前に買っていくことが多いのですが、皆さん、圧倒的にコストパフォーマンスのいいケーキを買うんですね(笑)。今の子供は塾で忙しいから、買いに来ません。クリスマスケーキも、それまでは大体トナカイやサンタクロースが乗っていたりするのが人気だったんですが、この頃は逆にシンプルな方が受けるんです。逆に言うとお父さんが買いに来て、千円札1枚で、今は核家族ですから50円でも100円でもおつりがある方がいい。次の日のたばこ代にするかどうかわかりませんが、そういった傾向ですね。そういったコンセプトでやっています。
後を継ぐことを約束して大学は地方へ
そして、アメリカに留学
――ところで社長は、この業界にすんなりと入られたんですか?
大石 私は桃井第三小学校で、神明中学で、都立高校を出たんです。親父には小さい頃から経営を継げと、頭に埋め込まれていたので、しょうがないと思っていました。ですが、大学受験の時に意を決して交渉したんです。継ぐ代わりに4年間は外に出してくれと。下宿生活をしたいと言って。
――親から離れたかった?
大石 うちの親父は大きな体ですが、お酒を飲めないから、気に入らないことがあると朝8時からでも、どなりまくるんですよ(笑)。昭和の経営者はそういう人が多かった。朝からニトログリセリンをシャーカーで振っているような感じで、いつ爆発してもおかしくないような状態で、イメージとしてね。
――それは、強烈ですね。
大石 しかも、早稲田至上主義で、それ以外は大学じゃないといった感じで、家にいてダラっとしていたら、グダグダしているなら皿洗いでもしろという話になる。それを想像できたし、それがすごく嫌で、とにかく外に出たかった。だから北海道大学に決めたんです。
――新しい空気を求めて?
大石 なんで地方になんか行くんだと言われましたが、親父の早稲田の時の教授がいて、息子さんが、たまたま北大で政治学を教えていて、あの人がいるんだったら、行ってもいいよということで、晴れて北大に行きました。6畳一間で賄い付。共同流しで、お風呂は外の銭湯にという生活でしたが、楽しかった。同じ釜の飯を食った仲間とは、今もここで集まって年に一度飲み会をやっていますよ。
――卒業後は、すぐに実家に帰られたんですか?
大石 4年が終わって、すぐに帰るのはいやだった。どうせ後は継ぐんだから、留学させてくれと頼み込んでミシガン州立大学に決め、大学院を卒業しました。そこを卒業した人から、トーフルという試験に受からないと入学できないと。いい点を採ってからだと、一生いけないぞと言われて、だったら直接行っちゃえと。北大出てるんだったら、ただじゃ帰ってこれないから。若かったんでしょうね。それで行っちゃったんです。
――若さの特権ですね。
大石 あの頃は…。ミシガンという街は五大湖の真ん中でランシングという街で、キャピタルシティという州都だったんですね。だから当然大きい街だと思っていたら、各州の真ん中にあるのが州都で、だから飛行機で旋回したら、沼地と森林地帯だけしかないすごいところだったんです(笑)。大きさでいえば、大学が横に6キロ、縦に13キロ大学の敷地があるんです。火力発電主、警察、ゴルフ場が2つあって、7万人入るフットボール場があるとか、航空写真で見たら、テニスコートが100面ある、そこに4万5千人が住む寮があるんです。私が行った時に、ちょうど青山学院が厚木に移るというので、視察に来ていました。4万5千人が入るというということは、1日12万食から13万食を作るわけです。あんな田舎で。どうしてやっているのかということを聞きに来ていて、通訳のアルバイトもありました。その時に思ったのは、アメリカのシステムはすごいなあと。35年ぐらい前ですが、このシステムをその20年ぐらい前から作って運営しているわけですから、こんな国と戦争をしたらいけないと思いましたね。
視察を兼ねてフランスに
――その後、すぐに日本に帰って来たんですか?
大石 すぐに帰ってくるのが絶対嫌だったので、10カ月間、フランスに行かせてほしいと言って、フランスに行きました。その時、 ヨーロッパ中を回りましたね。
――いろいろ見てこられて良かった?
大石 そうですね。日本には今ミシュランに載るお店は普通にありますが、当時のフランスには、ミシュランの星付きのシェフのすごい人がたくさんいたんです。そういう店に飛び込みで入ったら、「なんでお前ここにきているんだ。なんで来たのか」と聞かれて、あまりフランス語ができないから、「俺は日本人で、将来フランス料理屋をやりたい」というと、185センチぐらいの巨体のシェフが、俺の厨房を見せてやるから、なんて気軽に言ってくれました。その中で友達になったシェフが1週間うちに来てくれて、2日間は、うちの料理人の講師をしてくれて、2日間はお客さんを呼んで、昼と夜フルコースを出したこともありましたね。
――帰って来て、いかがでしたか?
大石 浦島太郎状態でしたね(笑)。1989年でしたが、ここで暮らしていた時と全く環境が違っていました。道路は混んでいるし、タクシーは拾えない、みんな忙しそうで、終電なんかに乗ろうものなら、働き過ぎのサラリーマンはそこら中で喧嘩しているし、若い連中がドンペリを平気で飲んでいる…。自分がいた時は、こんな姿はなかったので、びっくりしました。本当に高速道路なんか年中混んでいるし、ゴルフ場は予約が取れないしといった感じで、どうなっちゃったの日本は?と思いました。
ケータリングの仕事を体験
――仕事の方は、そういう世相にどうされてましたか?
大石 私は、調理人をやるとお菓子屋さんの方が手薄になるし、お菓子屋やると調理が手薄になるということで、基本的には経理をやりながら、昼や夜は表に出てサービスの方を手伝いました。あとはケータリングですね。東京女子大や立教女学院のチャペルで結婚式を挙げて、披露宴で食事を出す。現地にコックからなにから全部行ってやるところが、そうそうなかったので、ケータリングの仕事は多かったですね。
――その頃、先代はお元気で?
大石 一番きつかったのは、一代でこれだけ築いたんだから、俺一代で潰してもいいだろうと、よく親父に言われたことですね。親父は、攻めの人間だったから、借金を作って、後は必死に働いて、返し終わると、また借金する。それが一番のモチベーションだったようですね。でも、そんなことをずっと続けていかれるわけがない。
死ぬ10年ぐらい前から、「俺がやるからと、あまり口出しするな」と言って、私がやるようになったんです。それというのも、命令系統が2つあると、どっちの言葉を聞けばいいのか、従業員も迷っちゃいますから。親父は1週間に1度しかこないのに、自分の思い通りにならないとみんなに当たり散らすわけですよ。最後は一切口を出さなくなりましたけど。
「お客様あればこそ」の精神で
朝市を開いて
大石 こけし屋の社是「お客様あればこそのこけし屋」という親父の時代に作ったんですが、その部分は、上の連中がやるから、下の連中もやらざるを得ないわけですが、やっていると、この商売をやる楽しみが掘り起こされて、若い連中もこれを通して取り組み方が変わってくるんです。
――ところで、いまは毎月、朝市をやっていますね。
大石 どんなに大変な時でも、夢を売る商売なので、お客さんたちがいい気持ちになって帰ってもらいたい。苦節何年といういうことをおくびにも出さない。うちは大丈夫ですからと、言っていい気持ちになってお帰りくださいという。それが私たちの仕事なんです、だから、うちの朝市には、地元の皆さんに感謝を込めてやっています。みんな朝6時にきて頑張るんですよ。ヒイヒイ言いながら頭から湯気出してやっていたら、悲壮感が漂うじゃないですか?お客さんも引いてしまう…。日頃、調理人はお客さんの顔は見えない。これでは本当の意味の感謝の気持ちは伝わらないということで、ここでは、作り手が実際に自分で作ったものをお客さんに直接売る、自分の言葉で売りなさいと言っています。
――いいことですね。
大石 これを経験することで、若い連中はどこか一皮むけたような感じになるんです。簡単なオムレツに、長蛇の列ができるんです。何々オムレツと聞いてから、お客さんの目の前で、油を引いて作っていく。オムレツを作ることはそんな難しくないけど、200人前、300人前を作り続けることは結構大変なんですが、焼きすぎたでは絶対ダメ。最初から最後まできっちり作り切る。それを若い連中にやらせるのは、うちの修業の一つですね。
好きな人ができても結婚できる
きちんとした環境を提供
大石 私の経営方針は、大きな舞台を作るから、その上で踊れと言うことです。それは、少なくとも好きでこの世界に入ってきたんだから、そこで君たちが挫折して辞めていくのは、労働時間が長いとか、思ったようなことができないとか、社会福祉が完備されていないとか、いろいろあると思うんですが、うちは厚生年金もつけて、早番遅番もしっかりシフトをしていいます。超過勤務手当もつけていますし、社会保険もつけています。入ってきたばかりの人間は1円でも多くお給料がほしいと言いますが、もし好きな子ができて、結婚したいとなった時に、相手の親御さんが、ケーキ屋なんかやっていて、ちゃんと食べていけるのか?の疑問に思うのは当たり前で、そのようなときに初めてこの会社に勤めてよかったなと、言えるようにですよ。修業の場でもありますから、それは楽じゃないですが、やったらやっただけのことがあると思いますね。
働き方改革はこの業界に合わない?
大石 いま危惧しているのは、昔は本当に寝る時間を惜しんで、お菓子の知識は本から、実際、手を動かしながら覚えていく技術は店でというような形でやっていました。今は、長く働かせるとブラック企業と言われ、できない者に「なんで、こんなことができないんだ」と言うとパワハラになる。それでは、人は育たないですよ。別に憎くて言っているわけではないのにね。怒ってパワハラ、仕事したら、やらせすぎとか。
――確かに、この業界は、特に厳しいかもしれませんね。
大石 うちの場合、朝の5時に入っての7時間労働ですから、2時ぐらいには終わるわけです。タイムカード押して帰ってもよし、自分が勉強をしたければ場所と材料は好きなだけ提供するから、自分の勉強のために使いなさいと、言ってあるんです。時間外は使用料をということになると、ギスギスしてくる。だから働き方改革は、この業界には合いませんね。
――そうでしょうね。
大石 サラリーマンだって楽じゃない。営業をやっていればノルマも課せられますしね。うちは一切ノルマがないし、精神的には楽だと思います。今は長く安心して勤められる場所を提供していくことが一番かなと思います。
雨が降っても買いにきて
くれるお客さんのために
――これからも人材育成に力を入れて、70年の老舗の魅力をお客様に…。
大石 雨が降っても朝市に来て並んでくれているお客さんがいて、休日に自分の財布から払ってくれるお客さんに対して、本当にありがたみを感じられる人間だけがこの業界で生き残っていかれるんでしょうね。今、理屈だけで言ったらIT業界の方が楽ですから。
――それは、どうでしょう?
大石 お客さんで証券会社の社長さんが来られますけど、「いいよな、無理に売りつけなくても、自s分からきて自分の財布の中からお金を出してくれるなんて」と本心から言われるんです。私が、そんな大変なお金は出してはくれませんよと言ったら、「そういうもんじゃないだよ」と。「だから私はそういうような形で、生きていますみたいなお店でございます」と。こんなお店でよろしければ、いつでもお待ちしております、ということです。
(こけし屋にて)