荻窪をクラシック音楽の街にしよう!
「荻窪の音楽祭」誕生記
「お気軽極楽」とコラボして、また前進

第5回荻窪の音楽祭
この11月7日(木)から10日(日)、「荻窪でクラシック音楽を聴く4日間」と称する年1回の荻窪音楽祭が開催される。そういえば九月には「荻窪お気軽極楽クラシック2019」が開催された。音楽祭が第32回に対し、こちらは、まだ第2回目の生まれて間もない、言ってみれば弟分だ。兄貴はクラシックの正統派だが、弟のほうは、ちょっぴりやんちゃかな。同じことでもポップスやジャズっぽいもの、映画音楽まであって、それこそ「お気軽、極楽」ときたもんだ。そのご案内を前号でしたが、こちらは商店街をベースに、石橋亭、客家亭、大東京信用組合、西武信用金庫などを会場に開催。この号の表紙は、その時の喫茶レストランジュノンが会場のツーショットである。
 ところで、ここまで成長した「荻窪音楽祭」が、何時、どういう動機から生まれたかを知る人は、ほとんどいないだろう。時がたっている。
第五回「荻窪音楽祭」から タウンセブン会場
 その、そもそもというのは、昔、「21の会」という会があって、「荻窪にも何かイベントが欲しいね」、にはじまる。正しく言えば、「21世紀の荻窪を考える会」(会長・宇田川紀通)で、その例会で、「高円寺でバカ踊り、阿佐ヶ谷には七夕があるけど、荻窪には何もない。なにか欲しい」の話に、幾つかの案を出しあった。が、決め手がなく、思わず「どうだろう、クラシック音楽でいったら」という私の案が「じゃぁ、考えてくれ」と決まってしまったのが、そのきっかけだった。
 私の小学校の頃の荻窪には、誕生会、クリスマス会、新年会などにお呼ばれ、されたりしたりしてのホームパーティがあった。そこでは、友達やお母さん、お父さん、飛び入りもあってのクラシック演奏のおもてなしの楽しい時間を過ごした思い出があった。この楽しい思いを街に広めたらいいのではの思いの提案だった。これが荻窪だとの思いで、他の街のイベントと比較したものではなかった。
「荻窪音楽祭」という名称が木眉までは、いろいろな名称が使われた
 企画を引き受けたはよいが、何から考えるかだ。街のイベントとしてやるのだから、街全体のイメージを出すことが肝要。先ず幅広いいろいろな会場の確保。公会堂、地域区民センター、アメックスのホール、教会。そして店関係などをリストアップし交渉に。予想以上に大変だった。次に出演者。これは公募としたが、荻窪には音楽大学の先生が数いらっしゃるし、学生も多い。そして、世界的に活躍する音楽家も多く、街のことを皆でしようと言うことで心配はしなかった。構想を実行案にまとめたところで21の会へ提案した。そして、実行委員会の設立となった。
 そして、杉並区の大きな協力を得られるようになって、開催にこぎつけたのに2年がたっていた。
 会名は、南口仲通の石榴の辰巳さんの、「何時でもクラシック音楽を楽しめるといいね」の発言から、「クラシック音楽を楽しむ街・荻窪」の会」と、あっさりと決まった。実行委員会は、会長に宇田川紀通氏、副会長に水島隆年氏、運営委員長に石榴の辰巳敬一氏に、プロデュースと事務局長を松葉襄と決め、各部署に21の会のメンバーがつく構成となった。こうして、ようやく開催に向けて歩を進めることになった。そして、サポート会を作ることになった。法人5万円、個人会員1万円。会にとって大事な資金源。皆で募り名簿を見ると100人ほどになった。計画を進めていく上で重要なのは、ボランティア会の存在であった。
 この会で、当日の会場作り、資料配布、会場受付、整理、進行、後片付けだけでなく、そこまでの演奏者への依頼、受付、各看板、総合プログラムばかりか各会場のプログラム、チラシからポスター製作まで全てにかかわる大変な仕事量である。会は80人ほどになったが、期間が1週間。会場数は30をはるかに超し、演奏はその倍。年2回の大音楽祭の準音楽祭が2回。その間に個々のお店の演奏会がある。個人の家の会場が増えて行くのだから、とても人数が足りなく、一部のメンバーは、開催日が迫ってくると、真夜中まで更には2時3時空がしらけるのに気付かぬ連日だった。それにしても、このボランティア会がなければ、音楽祭の存続はなかったといえる。
個人宅にも音楽祭の会場は広がった神崎宅にて
 計画が進行中にも音楽祭のイベント名はまだ決める事ができなかった。ポスター、プログラムをつくって行く中で悩んで決めたのだが、これには、各会場ごとにコンサート名をつけたことにもあった。ふれあいコンサート、街角コンサート、荻窪の春コンサートなどを付けながら行き着いたところが、翌年になってようやく、「荻窪の音楽祭」だった。これは、名前に親しみを感じる事を大切に。そして、荻窪らしさ、荻窪だからを強調したくて「荻窪の音楽祭」とした。この「の」を入れることに、私のこだわりがあった。
 この音楽祭の取り組みに、私は大勢の方に助けていただいた。中でも、記憶に残る人は、今は亡き仲通の器の店「花」の木島千恵子さんだった。自身もチェロ奏者で、店を会場(今はギャラリー遊美)に提供、演奏者の紹介、音楽祭へのアドバイスと多岐にわたり随分お世話になった。
 しかし、計画には、大きな誤算もあった。メイン会場として、杉並公会堂に日本フィルハモニー管弦楽団を予定して交渉したが、広報が話しを聞くなり、「現在うちは、事業が赤字で、とても参加する状態ではありません」と、あっさりと断られてしまった。1週間会期のど真ん中、メイン会場。どうしようと…。ちょうど、東京藝術大学の岩崎操先生〔洋絃会〕でコンサートを予定していると聞き、お願いして、失礼ながら穴埋めとさせ頂いて事なきあって、新日フィル(小澤征爾)誕生の時、日フィルは解散の危機に直面した。この時、操先生のご主人、東京藝大の洋三先生が尽力、文部省にもかけあって今がある経緯があった。会としてはこれをご縁に、操先生から、国立音楽大学、武蔵野音楽大学の先生方、二期会の大久保眞氏等ご紹介いただき、何かと大変にお世話いだくことになった。プログラム的アドバイスや校正ばかりでなく、例えば、初めてエントリーの方の演奏は、当時駅前にあった八重洲ピアノ社のホールを当て、先生方の評価を交え、次回の各会場のプログラム内容により割り振り、違和感のない場づくりができた。時には演奏者からのクレームにもご同業の好の解決もあった。
回を重ねては、個人宅の会場も増やすことがでたが、会主催として全てを管理に限界があり、そこに工夫して生まれたのが。会場ごとの自主企画演奏会の導入だった。
 街は常に、いまと将来に期待するイべントを求めている。
 クラシック音楽を楽しむ荻窪の「音楽祭」は、商店街をベースとする「お気軽極楽クラシック」の兄弟が.いま仲良くコラボして、これまでとは違った形の荻窪の街だからこその「音楽祭」となった。これぞ他にはない「荻窪の音楽祭」だ。こにきて、「荻窪」を強調した「の」の意味が現れてきたことは、私にとっては大変にうれしい事である
写真・文 松葉 襄