人生の学び、いろいろ
剣道に商道を、見出す
荻窪道場に思いを込めて

豊多摩通運株式会社代表取締役社長
井 上 和 英 氏

豊多摩通運株式会社代表取締役社長 井 上 和 英 氏

聞き手 松葉 襄

松葉編集長松葉編集長

荻窪駅南口を線路沿いに新宿方面へ歩いていくと、リパーク駐車場があり、その建物が豊多摩ビル本社です。井上社長を取材で訪ねました。

「豊多摩」の地名から付けた社名

荻窪駅前の豊多摩運送株式会社。
その当時は木枠梱包
――ビルに入ると,一階は、大きく広い駐車場になっていますね。
井上 このビルは、岩崎通信機の物流センターとして45年前父が建てたビルです。倉庫会社として使っています。
――そして、エレベータ横に大きな仁王像があります。なんとも不思議な雰囲気ですね。
井上 このビル5階に剣道場があり、仁王様を、守り本尊として建立しました。
――「豊多摩」という社名はどういうことで付けたのですか?
井上 大正12年、祖父の井上金六が山梨の甲府から上京して、新宿歌舞伎町(前・角筈)で豊多摩運送店として事業を始めたのが、始まりです。当時の新宿の地名は、東京府豊多摩郡新宿村と言っていたので、それで、会社の屋号を、そこからとりました。北多摩郡、西多摩郡などの地名は、西東京市ができて合併されなくなりましたね。その後、父が荻窪に出てきて、昭和23年に荻窪駅前で豊多摩運送店荻窪支店を開設して、昭和26年には社名を現在の豊多摩通運株式会社になりました。
光明院手前にあった駐車場。三輪車が2台並ぶ
――そうでしたか。昔は鉄道で物を運んでいましたよね。
井上 そう、トラックを使わず、鉄道で全国に物を運んでいましたね。その当時は、JRでなく国鉄で、今のルミネが立つ前には、あそこに貨車貨物が入いれる専用のプラットホームがありました。豊多摩通運は、貨車貨物で運んでくる荷物を取り扱うことができる会社でしたので、貨物から降ろして運んでいました。
――通運業とは、そういうことでしたか。
井上 戦後に、自動車が普及し始め、輸送形態もトラック輸送に大きく変わっていきました。現在、東京に約6000社、全国で約6万5千社の運送業者がいます。もちろん、荷物を運ぶ使命には変わりませんので、今でも、「安全、正確、迅速」をモットーにして業務を遂行しています。
――美術輸送もしていたとか。
井上 そうです。一時は「横の会」のメンバーを中心に日本画の先生200人ぐらいの絵を預かり、「日展」や「創画」などに搬入していました。
――今現在の取引先というと、どういったところがあるんですか?
井上 今は、昭和23年よりお取引を頂いている岩崎通信機の物流を主に行っています。福島に電話製造工場があり、内装、梱包を含めNTTを中心にビジネス電話、精密機械を全国に配送もしています。
――今も駅前で仕事をしていますね。
井上 はい、駅前で事業をしております。昔から仕事ができるのも荻窪の地域の皆さんのおかげと感謝しています。輸送のことなら何なりとご相談ください。
国土交通省で大臣賞受賞
――事業では、国土交通大臣賞を授与されたそうですね。
井上 有り難うございます。トラック事業発展に尽力したということで、国交大臣受賞をいただきました。栄えある表彰を頂き、これまでお世話になった多くの方のお陰と感謝しております。父も、橋本龍太郎先生が運輸大臣の時に受賞して、図らずも親子で栄誉に浴することとなりました。東京トラック協会及び杉並支部の関係者の皆さん、家族と社員に改めて感謝したいと思います。

生まれも育ちも荻窪で

――ところで、井上社長のことをお聞きしたいのですが…。
井上 私は、荻窪生まれの荻窪育ちです。衛生病院で生まれ、子ども4人と孫も衛生病院生まれですから、家族そろって荻窪っ子です(笑)。小学校は吉祥寺にある盈進小学校で、宮前中学校を卒業して日大鶴ケ丘高校に行き、日本大学を卒業後、主に電話交換機や情報通信機器を手がける岩崎通信機に就職し帝王学を学び、その後、父の会社にはいりました。
――大学を出て、岩崎通信機に入社されたのですね。
井上 そうです。井の頭線久我山駅近くの、得意先である岩崎通信機は、当時の黒電話601を生産しており、「売り上げ高一日一億円」の目標をかかげていました。年商は、最高の時800億円まで行きましたね。
――すごいですね。
井上 私は、製造、営業など半年間の研修を終了して、生産計画二課に配属されました。会津若松に計測機器の製造工場を作るということで、先輩と二人で何度も会津に行きました。会社中が活気にあふれていました。そのあと、経理部営業所担当になって全国の営業所の経理を任されました。23の営業所がありました。それから2年後に融資担当に配属、会社全体の資金担当を任され、必死に働く毎日でした。その時代は、まだ電卓もなく、億の単位もそろばんで計算していました。その当時の記憶といえば、中学卒業生は「金の卵」と呼んで多くの女子生徒が入社してきました。工場の長いベルトコンベアーに並んで電話の五号ダイヤルを作っていました。学生寮があり、4時に仕事が終わると、国学院久我山高校に夜間学校があり、4年間かよいました。人間教育をしてくれる素晴らしい会社でした。今は生産工程が変わり、もう夜間学校はありません。
――会社を辞めて、その後お父様の会社に入られたわけですね。
井上 そうです。私は8年間、岩崎通信機でお世話になりましたが、父の会社に戻り、豊多摩倉庫から豊多摩通運に移り、営業所で業務にあたりました。その当時は、九州にも大きな工場があり、トレーラや大型車両で全国の配送をしていたので、私も44歳までトラックで全国を走りまわっていました。その時代には携帯電話もなく、営業所に連絡を取るのに100円玉がいくつあっても足りませんでした(笑)。

よく働き、前向きで
先見の明のあった先代

上井草営業所落成式。父と母
―――ここで、お父様の話をお聞きしたいのですが、どんな方でしたか?
井上 父の武次は、明治41年生まれで、新宿で育ちました。三平食堂が好きで、私は、よく連れていかれました。仕事で苦労話もあったでしょうが、ほとんど昔の話はしない人でした。仕事が終わると、着物に着替え角帯をしめ、下駄をはいて、会社の前にある「オカメ」という居酒屋に飲みに行くのが日課で、冬はシャッポをかぶりマント姿で出ていきましたね。とてもおしゃれでした。88歳で亡くなるまで、365日よく働いていました。お正月も、毎年、徳島の金毘羅様をお参りして「交通安全、商売繁盛」を祈願していました。そういうことから、今でも社員を連れて毎年、初詣には、成田山新勝寺のお参りと花園神社へ参拝し、大熊手を買ってきます。
――仕事には、前向きな方なんですね。
井上 仕事にとても精力的というか前向きで、トラックを動かすには、ガソリンが必要だから、石油スタンドを作ろう、預かった荷物を保管するには、倉庫が必要だから、倉庫会社を作ろうというふうだった。得意先の会社が杉並に販売会社がないからと言って電話の販売会社までつくりました。これからは輸送だけでなくマンション経営も必要だとマンションも建てました。理にかなった経営をしていましたね。なんでも興味を持つ人で、だからこそ、厳しい時代を乗り越えることができたと思います。
――先見の明もおありでしたね。
井上 そうかと思います。
――そんな先代にご趣味はあったんですか?
井上 そうですね。父は、もらったつがいの真っ白なチャボをとてもかわいがり、卵ができると皆さんにあげていました。こまめで、かえす時には、わらの巣を作って卵を入れてチャボに温めさせていました。多い時には20羽ぐらいになりました(笑)。青梅街道の前で飼っていたので、記憶のある方もいらっしゃると思いますよ。

秋田犬の毎日の散歩は
欠かさない

華虎が来たときの写真
とても可愛いんです。
――ところで今秋田犬を飼っていると聞きましたが…。
井上 そうなんです。去年の春、娘が一人増えました(笑)。華虎(はなこ)と名付けました。黒虎(くろとら)の秋田犬でメスです。生まれて2ヶ月目で来て、今は28キロにもなって。足が白いホワイトソックスでとても美人さんです。私が毎日、朝晩、散歩に行っています。
 秋田犬は、もともとは江戸時代に大館地域でマタギが狩猟犬として育てたので、洋犬と違って人なつっこさはありません。ところが、飼い主にとても忠実なんです。秋田犬は、1931年に天然記念物秋田犬として登録されています。でも、大きいので飼うのが大変で、買ったゲージではすぐに小さくなってしまって、「犬舎」を作りました(笑)。庭も植木鉢など片づけて、小さいですがドッグランにしました。これから、ハナコの成長を見るのが楽しみです。

懐かしの荻窪の街

――荻窪っ子の井上社長に昔のことをお聞きしたいのですが…。
井上 会社が、青梅街道の駅北口ターミナルの前にあって、そこに住んでいましたから、いろいろ思い出しますね。隣が徳川夢声さんの家で、夢声さんは、昭和16年にNHKラジオ放送で、吉川英治作の宮本武蔵を朗読され、この放送で一躍有名になりましたが、私は、よく裏の空き地でベースボールをして、庭によくボールが入るので「すいません、ボールとらせてください」と行くのですが、何回も行くものですから奥様によく怒られました。やさしい方でした。お引越しの時はお手伝いをさせていただきました。このとき、海賊船に出てくるような大きな宝物の入る頑丈な皮のカバンがあって「昔はこれで、よく主人と船旅をしました」と懐かしそうに話しをしていたのが印象的でした。
――北口も大きく変わりましたね。
井上 豊多摩の本社前には、路面電車(チンチン電車)の終着駅が南から移ってきました。青梅街道を、新宿まで走っていて、線路の上を車が交差して走るので、よく走れるなと子供心に感心しました。荻窪駅北口ターミナルのバス停は、今よりだいぶ狭くて、回りはぐるりと駅前まで小売店が並んでいましたね。金物屋の報恩商店さんから、追分浜田さん、寿司政さん、喫茶店エリカさん、布団の冨田屋さん、ラーメンの丸福さん、団子やのきく屋さん、婦人服のベルさん、高橋電気屋さん、ブラザーの伊東ミシンさん、果物屋の丸美屋さん、中央線一号店の新星堂さん、カツオ出汁のいいにおいがプンプンしていた丸信さん、昼間から大勢のサラリーマンが並んでいるのを覚えています。私もよく食べに行きました。なつかしい限りです。

六歳からはじめた剣道で
鍛えられた精神

大義塾道場、大きな同ジョイでした。中野宗助先生剣道十段と中村藤吉大先生
――剣道場を作るぐらいだから、もしかしたら井上社長にとって剣道は、人生そのものですか。
井上 そうかもしれません。剣道は六歳から始め、町道場の大義塾に、毎日通っていました。鉢巻をして発声練習の後、少年部全員で「道場訓」を唱和し、稽古が始まります。
一、我等は、大日本の少年也忠孝敬愛の大義は剣道の本領也
一、吾々は、剣道に励み心身を鍛錬し人格の向上に努力せん
一、吾々は、行を通して禮儀作法人道行儀作法を修め世界平和の為に邁進せん
右神明に誓ふ
 大先生の稽古は荒く厳しく、小学1年生といえども容赦しませんでしたね。土の上での野試合もあって、泥んこだらけになりました。寒稽古では、明け方の暗い中を稽古着の上にチャンチャンコを着て通いました。稽古が終わると、必ず大先生、太郎先生はじめ諸先生からのお話がありました。「剣道の心構え、礼節とは、残心とは」といった話ですが。先生によっては話が長く、足の痛くなるまで正座をしたのを覚えています(笑)。
――様子が、目に浮かびますね。
井上 大義塾は、中村藤吉先生が創設者で、カイザルひげを生やして、大先生といっても背は150cmもない小柄の先生でしたが、大きな声が道場いっぱいに響き渡っていました。戦前に、アメリカのカリフォルニアに14支部1万5000人の弟子をつくり、剣道の復旧に尽力されたすごい先生でした。昭和16年に荻窪本天沼に剣道場を開き、門弟3000人の基礎を作ったんです。私は最後の愛弟子でした(笑)。
太郎先生が、全日本健闘大会で優勝宗助先生、太郎先生、藤吉先生
――すごい方だったのですね。
井上 はい、誇りに思っています。昔の入門帳を見ますと、昭和20年から25年まで入門者はおらず、記入欄は真っ白でした。この6年間は、終戦後の駐留軍に、日本の武道は止められていたのがわかります。総理をされた橋本龍太郎先生、落語家の林家木久扇師匠など、大先輩の名前が載っています。大先生の息子さんが中村太郎先生で、全日本剣道大会優勝、神奈川県警首席師範もされました。小川忠太郎先生は、学生時代(国士舘大学)の師範であり恩師です。
――中村太郎さんは、早くして亡くなられたのですか。
井上 そうです。私の恩師です。私が18歳のときに、47歳の若さで亡くなられましたが、その時、太郎先生の奥様から「大義塾の名代として小川先生のご自宅に挨拶に伺いなさい」と言われ、初めて小川先生にお会いしました。先生は、剣道範士九段、警視庁の最高名誉師範として、92歳で亡くなるまで、剣道をやっていました。古流の小野派一刀流、鹿島神伝直心影流、坐禅も実践されました。その時は、緊張して何のお話をしたか覚えていませんが、帰り際に「読みなさい」と言われて、加藤完治先生『武道の研究』を頂きました。今でも手もとに大事に置いています。それ以来、毎年暮れのご挨拶に伺いました。

鹿島神伝直心影流で学んだ「無心」

小川忠太郎先生
――それから小川忠太郎先生から、鹿島神伝直心影流を学ばれたのですか。
井上 32歳の時でした。小川忠太郎先生から「水戸内原の武道修練会に来ないか」とお手紙をいただき、それで鹿島神伝直心影流を学ぶことになりました(一本目八相発破・二本目一刀両断・三本目右転左転・四本目長短一味)。武道修練会は、朝6時から坐禅、午前午後と小川忠太郎先生の講話が2時間、法定之型4時間、夕方に防具稽古と休む暇がありませんでした。参加した先生方は、小川先生のお話を一言半句聞き逃すまいと真剣に聞いていましたね。
――剣道とは、奥が深いものですね。
井上 そうです。基本の型から学びました。打ち込みと呼吸法で「吸った息は、かかとまで落とせ」と、努力呼吸ですね、何度も打ち込みをして気が遠くなりました。小川忠太郎先生は、これを「動く禅」と言い、出発点が捨て身、到着点が相打ち。体を捨てると心が生まれ、本当の自分が生まれる。捨て身が出来なければ、小手先だけになり、精神面の内容が伴わず、人間的に伸びない。「無心とは捨て身である」と。
 また、「無心」はなかなか言葉に表せない。言葉に表した時は、既に無心ではない。強いて説明すれば、勝った、負けた、強い、弱いの優劣を争う相対的の術ではなく、敵も無く、我も無い、絶大的大道であり、「一剣天に倚って寒し」の衝天之気であると言っています。「井上君、剣道は、勝った負けたではなく、段より実力、実力より真実・誠だぞ。ご本尊を見つけましたか」とよくいわれました。修練することによって、心の迷いを一刀両断し、「逆境結構、順境結構、晴れてよし、曇りてよし不二の山、元の姿は変わらざりけり。」の心境でありたいものです。

12年前、自社ビルに剣道場を

鹿島神伝直心影流法定之型打ち込み
――修行とは難しいものですね。井上社長が,荻窪道場を作られたのは…。
井上 12年前、昔の大義塾の道場の写真が出てきましたので、本家の了解をいただき、弊社五階に剣道場を造りました。平成18年2月のことです。「今あるのは、剣道のおかげ、今の子供たちに昔と同じように板の間の道場で稽古をさせてあげたい」との思いで造りました。「子ども達が明るく元気に成長するとともに、お父さんお母さんを大切にし、優しい子に育ってくれる」ことを祈願した。
――今までの活動は、何かおありですか。
井上 はい、これまで、パリ剣道祭、ドバイ・ミラノの剣道指導、ねんりんピック、京都大会、台湾・中国・アメリカなど海外遠征、セミナーなど、多くの行事に参加してきました。ねんりんピックは、55歳以上のシニアが各都道府県指令都市の代表として参加する全国剣道大会です。2014年に、東京代表として栃木大会に出場し、全国の剣友とも懇親を深めることができました。パリ剣道祭では団体戦で準優勝をすることができて。そして平成27年に、新生「荻窪道場」を立ち上げ、今に至っています。

道場には錚々たる
先生を迎えて

武道修練会で小川先生と
――伝統文化のある道場ですね。
井上 はい、剣道をこよなく愛し、自己の精神鍛錬に励み、一生、修行する誓いを立てた剣士たちが集まる道場に成長しました。師範の先生は、範士八段篠塚増穂先生(元神奈川県警首席師範)範士八段亀井徹先生(元熊本県警首席師範、第18回全世界剣道大会日本代表チーム総監督、2年後にフランスで世界大会があります。)さらに指導陣として四名の教士八段の先生方に、ご指導をいただいています。
――それだけの先生方に来ていただくということは素晴らしいことですね。
井上 はい、ありがたいことで、いつも感謝しています。現在、名札には七段29名、五段六段11名の先生方の名前があります。ドイツ、アメリカ、台湾など外国の先生方も稽古にお見えになります。先月は、台湾から少年剣士が40名も来ました。稽古もさることながら懇親会も大忙しでした。よい「交剣知愛」ができました。幕末の剣士・島田虎之助が言っています。「それ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学ぶべし」と。
――剣で心を学ぶのですね。
井上 剣道には、「剣禅一如」という言葉があります。人間禅の「荻窪禅会」として二年前に発足して週一回、本格的に座禅を組んでいます。「悟りを開く」のはなかなか難しいですが精神統一をすることにより、心の安定が得られると思いますね。

なまこ壁に「竹林」「さざれ石」
荻窪道場

剣道大会開会式
――荻窪道場はどんなところですか?ご案内してもらってもいいですか?
井上 はい、よろしければご案内します。入り口に大きな「荻窪道場」と書いた看板があります。横に、「国家君が代で歌われたさざれ石」の立て看板があり、『さざれ石』が置いてあります。
*注)『さざれ石』は、石灰岩が雨水に溶解され、接着力の強い乳状液(鍾乳洞と同じ)となって何千年何万年もの間に小粒な石を凝縮して、次第に大きな巌(いわお)となる石のことを言います。一粒、一粒の石が我々国民であり、手をつなぎあって平和な世の中を作りましょうという意味があります。
――初めて、「さざれ石」を見ました。
井上 それでは、道場の中に入ります。正面に大きな神殿があり、昔の道場の様子を再現しました。木曽の檜を使って、檀を作り、結界を設けました。中央にある九尺の神殿は総檜造り、両脇に床の間があり、床柱は魔除けの槐と一位の木を使っています。左右の落としがきは、天の虫と言われる蚕の食う桑の木を使い、床板は厚さ二寸の欅の銘木を使っています。控の袖は秋田杉の一枚板戸です。天井は、秋田杉根杢の格天井、中央に天蓋を設け、桜に染め抜かれた水引が掛けられています。左手に大太鼓を置き、神の領域に近い形で築きました。
――神聖な感じがします。
井上 神殿に向かって右側に、明り障子があります。帯と縁の飾りに紫檀を使い、しゃれたデザインが切り抜かれています。切り抜きは、父を表す瓢箪に杯・息子を表す独楽に紐・娘を表す羽子板に羽根・母を表す紅葉に扇子の四組が、綺麗に意匠されています。神殿に向かって左側は、工夫を凝らした矢羽のデザインの大きな格子戸があります。
――この中に槍がありますね。
井上 そうです。竹刀・木刀・模擬刀・タンポ槍などが掛けてあります。床は紀州の杉板(厚さ一寸余り)を使っていて、道場の床に最適にするのに三年間ねかせたものです。
――そこまでこだわっているんですね。
井上 道場開きの時、林家木久扇師匠から「まるで工芸品の中にいるようだ」というお褒めの言葉を頂きました。
――これだけ凝った剣道場の造りは、他では見られないでしょうね。ただ、ただ感服するばかりです。入口にある仁王様のお話も聞きたいのですが。
井上 そう言っていただいて有り難うございます。正しくは「金剛力士像」と言います。金剛力士天尊の守護者として左右二身となったのが仁王様です。
――迫力があります。
井上 そうですね。高さは4・2メートルありますから。仏像は、平安時代までは柔和な顔だったのが戦乱が続き仏教を守るため、憤怒の守護神になったと言われています。
――仁王様は、すごい守護神なのですね。
井上 子どものころ通った道場に石造りの仁王様があって、同じように置きたいと思って、平成21年7月、ご縁があって、金剛力士像奉安祈禱会を成願寺住職小林貢人老師にお願いして、木彫りの金剛力士像(仁王様)を安置することができました。

様々な形で荻窪に貢献

第六十六回全日本剣道選手権大会で優勝、西村英久先生荻窪道場来訪
――ところで、天沼八幡神社の総代もされているのですか。
井上 はい、総代もさせていただいています。父も神社総代をしていて、先々代の宮司より長いおつきあいをさせて頂いています。私は、平成7年からです。たくさん行事がありましたが、平成28の年天沼八幡神社皇居勤労奉仕団にも参加しました。鶴岡隆志宮司が、代表として皇太子さま(現在の天皇陛下)に拝謁して、皆さん感極まっていました。
――杉並ロータリークラブの会員でもありますよね。
井上 そうですね。20年前に武蔵商事の宇田川紀通社長や東洋時計の小竹良夫社長から入会のお誘いをいただき、平成11年に入会しました。今年度7月からは会長を仰せつかりました。
――そうですか、実際にはどんなことをされるのですか。
井上 杉並ロータリークラブは、今年で32年目を迎えましたが、これまで様々な奉仕活動をしてきました。例えば原っぱ広場にベンチと椅子を寄贈したり、荻窪消防署少年団に激励の寄付したり、荻窪駅南口に避難場所誘導ポール(避難場所、桃井第一小学校↓250m)を立てたり、杉並公会堂前歩道橋に安全標語の横断幕設置(よいマナー守りつづけて子や孫に)をつけたりして…。
――南口の誘導ポールもそうでしたか?街に必要なものですものね。
井上 あとは、豊多摩高校吹奏楽部による高井戸浴風園でのクリスマスコンンサートやふれあい運動会寄付など、地域に根づいた奉仕活動もしています。杉並区交流協会と協賛し、杉並在住の外人による日本語スピーチコンテストも毎年開催しています。s交換留学生のホストファミリーもしていて、フランスやドイツ、トルコ、メキシコといった高校生が来ました。海外では、ネパールの識字率向上のため教材を送りました。
――本当にいろいろな社会奉仕をしているのですね。

東日本大震災で1ヶ月後には
水のペットボトルを飯舘村に

井上 そうですね。その中で特に印象に残るのが、南相馬市への支援でした。今から8年前、2011年1月13日、東日本大震災の時、当時の金子会長が「飯舘村に水を持っていこう」ということになり、震災1か月後の2月13日に有志4人で、4000リットルの水を村役場に持っていきました。これは20リットル入りのケースで200箱、ペットボトルにすると2000本になります。放射能で水が汚染され「乳児に飲ませる水を持ってきてくれた」ととても感謝されましたね。
――気持ちはあってもなかなかできないことですものね。
井上 東京の人がマスクもしないで来てくれたと驚きながらも歓迎してくれました。弊社のトラックで静岡から積み込み、福島まで届けましたが、放射線量が高いといって、よその運送会社は福島に立ち入らない状況下でした。役場の対策本部の二階は「原発事故レベル7」の発令が出た日ということもあって騒然としていました。菅野村長さんが「6500人の村民を、1ヶ月以内でどう避難させればいいのですか」と困惑していたのを覚えています。そのあと、南相馬ロータリークラブ酒井さんから「現地を見にきてほしい」と連絡があり、被災地に向かいました。

想像を絶する南相馬の街に
言葉を失って

金剛力士像。敵が攻めてくると二体に別れ戦います。お寺を守ってます。
――南相馬にも行ったんですか?
井上 原発から20キロの検問所の横を通過し、海岸線まで行きましたが、ほとんど家はなく、ただ一面まっ平らでした。国道四号線には、大きな船やボートが陸に押し上げられ、想像を絶する光景が広がり言葉もありませんでした。少し前までは道路にも船が散乱し走れる状況ではなかったそうです。国道を境に、海岸線側には、津波の被害で家がほとんどなく、反対の陸地側は、昔のまま、のどかな田園風景が広がっている景色が現実のものとは思えませんでした。車から降りて、歩道橋にのぼり、外を見渡すと、大きな船が乗りかかり、一面何もない荒涼とした風景が海まで続き、自衛隊の方たちが捜索をしていました。階段を降りると、写真とアルバムが散らかっていました。揃えておきましたが、何とも言えない空虚感に襲われました。心から皆さんの無事を祈りました。
――そうですか、剣道の精神をお持ちの井上社長にとっても、大変な経験だったんですね。今日はお仕事以外にも様々なお話が伺えて、有益な1日でした。これからもどうぞ荻窪の経済人として、街の発展にご活躍ください。


松葉編集長松葉編集長

次回は、社会福祉法人いたるセンター理事長 谷山哲浩氏