寄り添って幼児から高齢者まで
福祉と教育・事業に大きな理念を貫いて
社会福祉法人いたるセンター理事長 谷 山 哲 浩 氏
聞き手 松葉 襄
――最初に、いたるセンターという名前の由来について伺いたいのですが…。
谷山 これは、フランスの医師・ジャン・イタールという人の名前をいただいたんです。
――貴人名からですか?どういう人ですか?
谷山 説明しますと、フランスのアベロンという森にオオカミと一緒に暮らしていた人間がいたんです。オオカミの中で暮らしているから、本性そのものはオオカミなんです。それをどうしても人間社会に戻したいと。しかし、やる人が誰もいなかった。その時に、学校の校医で軍医だったイタールという人が、自分が人間社会に戻そうと言って、その子を預かったんですね。オオカミですから、四足で生活していたので、立つこともしない。それを二本足で立たせて、手を使うことから教えるんです。言葉も覚えさせて、普通の人間として養育しようとしたんです。それが、なかなか手こずって、生涯で覚えた言葉は一ケタしかなかったというんですね。
――それでは、教えるのもたいへんですね。
谷山 手でナイフやフォークを使ってと教えても、人がいないときは、手を使わず、口で直に食べてしまう。気性も荒いし、手こずったんです。それで、自分のメイドさんに任せて、愛情を持って養育すると穏やかになって、暴れることはなくなったんです。世界でも初めてオオカミ少年を人間の社会に戻すことができたんです。
――よかったですね。
谷山 その理念と養育方法を我々も引き継ぎ、後世に残そうということで、この方の名前をいただいたんです。
――それは、いつの段階で決めたんですか?
谷山 1967年に創立ですが、その時からです。2年ぐらい前から準備はしていて、65年ぐらいから障がい者、特に知的障がい者に特化してやろうと。今と違って、臨床発達指導する支援センターなんで、それでいたる臨床発達指導センターでした。寄り添って、幼児から青年まで発達に関して、訓練もあるし支援もあるということで、指導センターと名前を付けて発足したというのが起源ですね。
――その頃、まだまだ今のように福祉とか支援といった対策は区にしても、国としても、至らなかったと思いますが…・
谷山 そうです。結局一部の学者とか、障がい者に関わった医療関係の方々とか、ほんのごくわずかしかいなかったですから、しかも専門的であるところが。
――そうでしょうね。
谷山 やはり、相当な財源も必要だったし、寄付してくれる人も少なかったですから、やはり、日本は寄付ということでは遅れているので、欧米やアメリカみたいにいかないので、大変苦労しました。
――それを、今のように多岐にわたり発展されたけど、それの最初はどこから始めたんですか?
谷山 これは、社会事業大学の教授たちが、そういった理念で、私の父もですが、篤志家で、お金をかなり寄付したんですが、お金の工面でものすごく苦労していたんですね。それの理念に賛同して、私も多額な寄付をして…、法人を作ったといういきさつがあるんです。
――そこで法人化したんですね。
谷山 当時は、社会福祉法人を作るのは非常に難しくて、自己資金で、資本金が2000万円でしたか。そのぐらい無借金で持っていなくては作れなかったんです。なぜかというと、持続できないんですね。学校法人も医療法人もそうですが、地域に持続して発展できると、そういうふうな確約に近い、行政からすれば明日すぐつぶれたら困ると、いうことで、社会福祉法人を作ることは非常に難しかったです。それから2年以上かかったというのが実情です。
いたるセンターのセンターは、
「中心」の意味を込めて
――最初の施設は、どこから始まったんですか?
谷山 天沼一丁目で、今のテツゲンの寮の裏ですね。
――大きくされて、どういった展開で進めていかれたんですか?
谷山 いたるセンターの名前の「センター」には意味があるんです。ここを発祥の地として東京に広めて、それで広くあまねく発展しようということで、センターの意味は中心な規模を持とうということで付けたんです。行政の言っているセンターは施設を意味しているでしょう?そことは意味が違うんです。これは概念というか、哲学なんです。それは主張的にも理念でも、それを発信していくという強い精神を我々は継承しているんです。
――これから多岐にわたり発展していく、そのステップとなったきっかけは?
谷山 まず、土地が借地です。玉野さんと言って、杉並区役所の大家さんでもあった大地主です。私も10年に渡って交渉しましたが、その土地を売っていただけなかったんです。そのために当時は、第1種社会特殊法人に格上げができなくて、ずっと第2種社会福祉法人だったんです。そのために、措置という制度があって、第1種社会福祉法人に行政が税の面で支援してくれるんです。それが非常に苦難の歴史だったですね。2種は行政の支援がないんです。
――いつぐらいまで、行政の支援はなかったんですか?
谷山 平成8年まで、ずっと大変でした。このとき私が3000万円寄付して、それでも足りなくて、銀行からお金を借りて頼んで土地を譲ってもらったんです。それで、第1種社会福祉法人になれたんです。これが大きな転機ですね。
――ずいぶん後でしたね。
谷山 そうです。苦難の連続でした。給料の支払いとか、安くて…ほとんどボランティアのように皆さんにお願いして。
――その頃は、何人くらいから始めたんですか?
谷山 30人~35人ぐらいですかね。ところが、第1種になって、すぐに親父が脳出血で倒れまして、私は理事だったんですが、理事長をやってほしいと頼まれました。しゃべれない、歩けない、相当長い時間リハビリしていたんですが、復帰できない状態で。それで私が父に代わって務めることになりました。
――話が少しもとに戻りますが、1種と2種の差はどういったところにあるんですか?
谷山 結局ですね、1種は国が認めた、厚労省が認めたもので、第2種は、厚労省よりも、地方自治行政の管轄という感じですね。
――そういうと、どういったことになるんですか?
谷山 地域における福祉サービスを行政と話し合って必要な事業をするということになります。ですから、その当時は、ショートステイとか小さい事業しかできなかった。第1種では、広域的に大きな事業ができるようになるんです。
――その展開の仕方が変わってきますね。
谷山 法人の趣旨は、いたるセンターですから、広域的なんです。もともとは、杉並区だけではなくて、東京都のそういう障がい者をどなたも引き受けていたんです。そういう歴史があるんです。ですから第1種になるというのが、私のミッションだったので。
あけぼの作業所は
働く人のための施設
――そういった施設をどんどん増やしていって、いろんな展開をして、今のあけぼの作業所もあるんですね。世間的には、あけぼの作業所がすごくアピールしていますよね。
谷山 そうですか?あれは、杉並区が建てて、区がずっと直営でやっていたのを我々の方に公設民営ということで、任せてもらったんです。
――そうですか。
谷山 公募があって、応募しましてそれで、うちが選ばれてやることになったんです。
――まだ区がやっていると思われている方が多いかもしれませんね。障がい者に作業をさせる…?
谷山 うちでは、作業させるとは言わないで、お仕事をしてもらっていると言っているんです。
――失礼しました。
谷山 お仕事で来てもらっているんです。社会人で働きたいと思っている人が来ているんです。それは私の理念と合うんです。働きたい人を受け入れる体制をつくることですから。創業当時から。
――働く意志のない人は?
谷山 それは、第2種の時から、非常に理念にそぐわなくても受け入れざるを得なかった。運営ができないから。これで重い人、仕事ができない人でも受けたんです。存続のためにはね。我々は働きたい人のために作った精神があるわけです。理念として。
――パン工房PukuPukuは…
谷山 あけぼの作業所を引き受けたんです。理念に基づいて働くところを特化するところですから。
阿佐谷福祉工房は、阿佐谷生活園という名前にして、行政もそれなら地域の重い方を受けてくれということになって、それで、私の代になって、あけぼの作業所を受けますよ。ということで、認められたんです。ところが、あけぼの作業所も自立支援法という法律が変わって、ここで、重い人は、生活介護の人、軽い人は就労型と2つに分かれて、我々の理念が今の時代を変えてきたんです。もともとは働く人しか受けない施設だったんですが,阿佐谷生活園も介護の人と働く人が一緒にいるんです。あけぼの作業所も働く人ばかりだったんですが、重い人は生活介護に、働ける人は働く方に。ただし、私たちの理念は、どんなに重い人でも働く意欲がある人は働いてもらいましょうと。行政は、生活介護の人は働くのが無理じゃないか、というふうに法律で変えても働く、そして社会に関連があったほうがいい。接した方がいい。
――それは重要なことですよね。
谷山 どんなひとでも働ける人は働こうと。
――一般社会との接点は大切ですものね。そんな中で、パン屋さんはどういった形で?
谷山 就労も、A型とB型があるんです。工賃なんです。売り上げから経費を抜いて残ったものを携わった人に分配すること。働いた時間によって分けるから工賃という形のものですが、パン屋さんは、就労A型で、雇用という形で支払っているんです。障がい者はここが違うんです。ですから最低賃金987円を支払っているんです。パン屋さんは作業所でなく、街の中でパン屋を作るわけですから、おいしいパンで体にいいパンを作るというコンセプトで、働ける場をつくったといういきさつがあるんです。だからふつうのパン屋さんで働くのと同じ感じです。
――大家さんの須田さんと契約するいきさつは、何かあったんですか?
谷山 私どもがパン屋をやることを須田さんは知っていましたから。借りてほしいという話があって、しかし、あそこは2つに分かれていて、一つは文房具屋さん、一つは貸店舗だったんですね。私たちは、申し訳ないけど貸店舗だけでは小さいから、ここではお断りしますと言ったんですが、じゃあ文房具の方も全部貸すから、借りてほしいということで店を開くことにしました。それでもまだ小さいですけどね。
パンからチョコレートに
――そうでしたか。パンのあとに教会通りで、久遠チョコレートもやっていますね。
谷山 あれは、私とは10年ぐらいの付き合いの理事がいて、豊橋でパン屋をやっていたのですが、私がパン工房PukuPukuをやるときに、おいしい体にいいパンを作る指導を受けてきたんです。そこから、ノウハウを教えてもらってパン屋をやったんです。もう11年になります。そういういきさつでパン屋を開店しましたが、今度は彼がチョコレートを始めて、私どももそれをやることにしたんです。
――そうでしたか。
谷山 なぜチョコレートをはじめたかというと、パンの場合、業者が作るにしても種類が多くて、うちでだいたい60種類ぐらい作っています。それが常に同じ商品を作っていればいいんですが、四季折々変えなくてはいけない。カボチャのパンとか、アップルパイとか、変えていかなければいけない。その時にまた障がい者がそれに馴染むのに時間がかかる。種類が多いということと、もう一つは、賞味期限が短い。私どもは、国産の小麦で天然酵母で作っていますから、賞味期限が2日なんです。ですから捨てることになって。割引してもいろいろしても、最後にどうしても捨てるものがでてくるんです。そうすると、今の世の中では、食品を捨てるのが問題になっていますよね。それではちょっと、まずいよねというふうな時代の流れと、もったいないと。捨てるということが心の中で痛いですよね。そこで彼がチョコレートを開発したんです。
――そうでしたか。
谷山 チョコレートは作り手を選ばない。障がい者でも誰でも、2カ月ぐらい練習すれば作れるようになるんです。これが最高なんです。そして賞味期限が長い。失敗したら溶かせばまた使える。だから捨てるところがない。あらゆる角度からこれぞまさしく障がい者が作るのにふさわしいという判断からチョコレートを作ることにしたんです。1軒は阿佐谷福祉工房の働きたい人。B型の方ですね。その人たちが作っているんです。
――理にかなってますね。
谷山 浜田山店は就労A型の人がやっています。最低賃金を支払って。この違いがありますね。チョコレートもA型とB型と両方やっているんです。これは、チョコレートが素材だからできることなんです。パンだとB型の人は絶対にやれない。他で福祉パンと言いますでしょう。かたい、まずい、次の日に売っている。だから、消費者目線ではないですね。業者目線なんです。でもうちは違うんです。おいしいから、体にいいパンだから食べてね。と。そこの視点が全く違っているんです。原材料費もかけています。体にいいものをみんな使っています。本当のパン屋さんをやっているんです。チョコレート屋さんもそうです。
現在、高級食パンのお店を検討中
――百点を見た人はみんな買いに行きますね(笑)。パン屋さんも今ふえましたものね。修行して個人でやっている規模の店が増えましたね。
谷山 そうですね。体にいいし、便利で早いからじゃないですか。お年寄りが多いですよ。
――これからは?
谷山 高級食パン専門店を計画しています。これは障がい者もできるんじゃないかと。それはこれからの挑戦です。50種類も70種類も作るのは無理だろう。食パン1本ならいけるかもとね。
――それでも、いままでのパン工房PukuPukuは菓子パンや調理パンなどもやってますね。
谷山 フランクフルトとか焼きそばなど。サンドイッチもやっています。クッキーとラスクも作っています。普通のパン屋はこれだけの品ぞろえがいるんですね。ただ、高級食パンですから、そこはちょっと敷居がたかいですが、パンだけでなく、チョコレートも作っています。
――PukuPukuってどういった意味ですか?
谷山 それは、自然酵母が発酵するときの音を表現したもので、PukuPukuと付けたんです(笑)。
――そうですか。それもかっこいいと思っていました。
谷山 アレルギーの人でも食べられるということで。ですから、PukuPuku事業部はA型なんです。それとカレーもやっています。グリーンカレーを缶詰で売っています。業務用に卸してもいます。
――それは、すごい!
谷山 うちのカレーを使って、お店で出している店舗もあります。小売りは特にやっていませんが、外販と言って、イベントで、キッチンカーで缶詰を温めてライスと一緒に提供しています。そこで缶詰も売っています。
自宅にいるような環境で
「ピヨピヨおうちえん」
――そうですか。ところで、ピヨピヨおうちえんについてもお聞きしたいのですが。百点の入っているビルの1階にありますね。
谷山 他にもあるんですよ。あとお蕎麦屋さんの本むら庵、あの横にあります。あそこが最初なんです。4年前に作りました。あの上が私どものグループホームなんです。
――なんで、おうちえんにしたんですか?
谷山 結局、うちは、幼稚園でも保育園でもない「おうちえん」で、家庭のように、自分の家のようにというコンセプトなんです。小規模保育ですから、0歳児から預かるわけで、子供にとって一番大事な時期。昔は、お母さんが面倒をみて3歳からというのが、保育園ができた由来なんですね。子供が生まれて一番大事な時期はお母さんが面倒を見なさいとね。それが今は、共稼ぎで、特に東京は家賃が高いし、教育にもものすごくお金がかかるということで、私どもは0歳児から預かっているんです。ですから、保育士さんにはお母さんのように育ててねということで、おうちえんと名付けたんです。
――事業は、どれも結果がいろんな形ででてくる楽しいお仕事ですね。
中学受験に失敗して
わかる子どもたちの気持ち
――個人的なことになりますが、運動の方は…、いろいろやられたんですか?
谷山 私、もともとはヨットマンです。運動は、小学校3年ぐらいから柔道をやっていて、体がクラスで一番大きくて。ただ、やんちゃで年中喧嘩して怒られていました。(笑)それまで野球とか、砂遊びとか、ベイゴマとかいろんなことをやっていたんですが、5年の時に、家庭教師についていて中学受験をさせられて、その時に、楽しみは柔道しかなかったんです。
――エリートコースへまっしぐらですね。
谷山 それが、受けた中学に全部落っこちてしまって…(笑)。それで、独協中学に拾ってもらってね。それぐらい出来が悪かった。
――ここはお医者さんが多く行っている学校ですね。やっぱりすごい。
谷山 独協に行っても体が大きいでしょう。中学時代は2番目ぐらいに大きくて、だから、荒れてケンカばかりしていましたね。上級生からいじめられて殴られたり、年中やっていましたよ(笑)。受験をやっていた余波があったから、学校に行っても全然勉強しない。それでも、ついてはいけた。その頃から不登校とは言えなくても先生のいうことは聞かない。遊んでばかり。授業中に抜けだしたりね。そんなことをしていた。
だから不登校の子どもたちとか、受験に失敗してひきこもる気持ちが良く分かるんです。
――経験が生かされて。
谷山 うちの親父は大学は出ていましたが、浅草でお土産屋さんをやっていた商売人でした。浅草で大きな土産物屋だったんです。親は私を医者にさせたかった。だから、早くから勉強させられた。私、ベビーブーマーなんです。昭和22年生まれ。247万人の頃の。
――それがヨットになるのは?
谷山 それは大学に行ってからです。自分は医者になりたくて大学に行ったんじゃなくて、英語を話せるようになりたかったし、英語の勉強をしたかったんです。そのために、高校2年ぐらいから、映画館で洋画ばかり観ていたんです。当時ね。
――よくわかりますね。
谷山 当時ロックが流行っていてね。ラジオはFENの進駐軍のラジオばかり聞いていたんです。あの頃、プレスリーのブルーハワイがすごく人気で、あれで憧れて医者じゃなくてアメリカに行きたくなったんです(笑)。そこで自分は事業家になりたかった。親と反発してね。それから勉強するようになったんです。
――自分に目覚めた?
谷山 自分のやりたいことが見つかってから、勉強をするようになりました。それがわかるので、その子たちも、勉強できない子も、したくない子も、将来何をやりたいのか、好きなものが何かを見つけることによって、そこで初めて興味を持つようになって、勉強をするようになるんじゃないかと、自分の経験から、その子たちの少しでも役に立てばと思い、学校を始めるんです。
引きこもりや不登校の子どもたちの
101カレッジ
――そこで、また新しい事業ですね。
谷山 この年になって、引きこもりや不登校の子供たちを何とか助けたいと、一助になればなあということで。これが、来年4月に開校するんです。
――社会のためにもですね。
谷山 高校中退・不登校・引きこもりのための、就労準備推進スクール。これは受験はないんです。就職と企業なんです。通信制で、不登校、中退の人、編入の人とかは、ここの高校に入ってもらって、これは通信制高校。ここの分校として長崎の方でやるんです。
――これは、学校法人ですか?
谷山 いえ、一般社団法人です。今は、通信制高校は株式会社でもできるんです。それで、作りまして、これは、高校を卒業した人が対象の、101カレッジです。職業専門学校のようなものです。それで、ここに入ってもらって、この子たちにいちばん向いているのは第一次産業です。農業、漁業、畜産業、大工、木工、機械の整備、左官、水道、土木、ということが向いているんです。勉強が大嫌いですから。それをあえて皆さん進学進学と言っているから、親がさせたいんであって、子供は働きたいという子が結構いるんです。この子たちにそういった職業をマッチングさせて就職させてあげる。それがこの学校101カレッジの目的、ミッションなんです。
福祉と連携した
子どもたちの大きな希望
――お話から、のびのびして、わくわく感が感じますね。
谷山 そこは、環境が自然がいっぱい、田んぼもあって農業もできます。ここで小麦を作って、いい小麦ができたら、うちのパン屋で買いますよと、いうことに(笑)。ここでビニールハウスを建てて、カカオを育てるんです。ここの子たちが作ってうちのチョコレートに使う。そうすると1次、2次、3次産業になる。農業と福祉の連携。そういうことを考えた構想なんです。
――お話から、のびのびして、わくわく感が感じますね。
谷山 そうです。不登校の中の半分近くは発達障がい者が多いです。それを教育の面からやると、不登校などになるんです。そこは教育ではできないんです。中学を卒業するまでは、義務教育だから文科省の管轄なんですが、高校からは厚労省の管轄で、我々は高校からはできるけど、中学は義務教育だからフリースクールしかできない。そこが、またそういう専門家がいるのかという問題になるんです。
――説明では分るけど、何か、すっきりしませんね。
谷山 私どもには、そういった専門家はたくさんいます。社会福祉士もいますしね、そこがどうも国のやっていることが、縦割りだから、どちらも入らない子が救われないということですね。
――そうですね。
谷山 そこで、われわれは、まず、高校生からやろうと。だから一般社団法人でも学校が認められるんです。
――今の社会に合った、いい受け皿になりますね。
谷山 本当は高校に行きたくなくて働きたいと言いますよ。親が高校に行かせたいんです。親がさせたいのと本人のしたいことは違うんですよ。これが、今の世の中の現象ですね。
――親の思いもわかりますけどね
谷山 社会に出て就職できないのが現状ですからね。ですから、高校だけは卒業させますよ、と。
――すごい展開で、次々と。
谷山 バラバラじゃないんです。ベクトルがみんな同じ方向に向いているんです。
今の社会問題に対応する受け皿に
――すべてに、「いたる」ですね(笑)。
谷山 どうしたらこういった子供たちを救えるか、福祉ですから、我々は人の幸せに思いを寄せているわけですから。支援しかできないけど、いい道の方法とか、専門家がたくさんいますから、施設もあるし、働く場もある。だから、引きこもりの子でも勉強が嫌いだったら、せめて通信高校の卒業はさせてあげたい、というのが願いなんです。
チョコレートでインターンをやってもらえばいいですから。立派な職人になりますよ。将来は起業させるというのが目標ですから。チョコレート屋さん、パン屋さんで起業させる。それが起業なんです。昔から、お豆腐屋さんでも、肉屋さんでも八百屋さんでも、みんな中学しか出てませんよ。私はそこを目指している。そこなんです。それで1次産業の人にということ。
――今、社会問題になっていることに繋がっていますね。
谷山 何とかお役に立っているのかな?と思っていますが。何とか「いたる」を中心にして。100年続く構想を描いていて、ここから始まっているんです。最初は、知的障がい者だけだったんです。それを、やっと障がい者全部をやるようになって、今教育の方も絡んできて、人助けは同じですから。医療の方は、訪問看護もやっていますから。ここで始めて全部がベクトルが合って。
101カレッジと農水産業の連携
――着々と進行ですね。
谷山 農業・漁業の方は、地元の農家、水産業の高齢の方々を師匠と言っています。その道30年以上の経験者を、30年未満の方をインストラクターと呼んで、この人たちに、101カレッジとマッチングさせて、農業希望者には農業の師匠、漁業希望者には漁業の師匠につける。将来は自分で起業するために学ぶということです。生活に直結するように、社会復帰できるようなスクールなんですね。
――すばらしい展開。スク-ルは、どちらで?
谷山 九州の田島です。無人島を手に入れて、現在進めています。
――島にはよく行かれるんですか?
谷山 毎週行っていますよ。スタッフのみんなに合ったら、カリキュラムを今つくっていますから。電話でしゃべるのはできますが、カリキュラムを作ることはできませんから。
――島へはヨットで?
谷山 いや、長崎空港からパワーボートで行きます。5分で着きますから。
――それ以外でも全国に行かれているんですか?
谷山 大体365日仕事をしています。仕事大好き人間ですから。いろんな人と合うのが好きなんです。会って、いいこと聞いたら、それを仕事面に生かしたり。
――奥様との時間は?
谷山 いや、亭主元気で留守がいいなので。(笑)すごく喜んでいますよ。ちょうどいい距離ということで。
――お子さんは?
谷山 みんな独立して働いていますよ。今ここでは、福祉と介護で全部かかわっていますから、訪問看護ステーションは在宅のお年寄りもお世話できますし、障がい者も見れますし、グループホームに住んでいる人も見れるんです。訪問看護師が全部回っています。安心して、親が死んだあとどうするの?という将来の不安も心配ないですよ。いたるが一生面倒を見ますからと言っているんです。親御さんは安心して死んでくださいと(笑)。
101は、映画の
「101匹わんちゃん」から?
――すごい構想ですね。あの…、101カレッジの101とは?
谷山 101匹ワンちゃんの映画がありますね、一匹だけ変わったワンちゃんがいるんですよ。人もそう。1%はいるんです。ここなんです。それと、もう一つは、100%じゃだめ。100を超えた101じゃなくて、「IOI」アイ・オー・アイ。人と人が手を取り合って、密接にコミュニケーションをとる。1対1の、という意味です。なぜかというと、不登校の子供は自信を喪失して、コミュニケーションが取れない。1対1でやろうということなんです。覚えやすいということ。1回聞いたらわすれないでしょう?そこからの101・IOI。好きな呼び方で結構なんです。
――企業としても大きくなって、ゆくゆくは、お継ぎになる準備は?
谷山 それが悩みの種なんです。後継者づくりに失敗しまして。男3人なんですが、どうですかね。 今、私が考えているのは、20年以内には病院を作りたいと思っているんです。
――まだまだ、広がる構想、広がる事業展開。それも社会から求められる。すばらしい。後継は、その時がくればですね。今日は、そんなお忙しい中、長時間ありがとうございました。
社会福祉法人いたるセンター
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