東京新聞( 令和2年6月6日朝刊)」に杉並のタウン誌「荻窪百点」が休刊した記事が載りました。

「荻窪百点」が記した55年
東京新聞( 令和2年6月6日朝刊)

荻窪伝えて半世紀−。杉並区のタウン誌「荻窪百点」が創刊から55年を迎えた。地元の歴史や文化、商店の移ろいなどを記録してきた。編集長の松葉襄(じょう)さん(83)の体調不良で、雑誌は331号(今年1月号)で休刊したが、ネットでの発信は継続。撮りためた1万5000枚もの写真をまちづくりに生かしてほしいと、整理を進めている。
(「荻窪百点」編集長の松葉襄さん=杉並区で の写真)

 創刊は一九六五年三月。B6判で隔月発行。地元にまつわるエッセーや地元経済人のロングインタビューを掲載。飲食店やイベントの紹介コーナーもある。
 特に力を入れるのは、表紙。今と歴史をつなぐ解説をする。自動運転の車の試験を取り上げたときは、かつて世界有数の航空機メーカー中島飛行機などが荻窪に集まっていて、昔から最先端の技術を発信する場所だったことを記した。
 当初から松葉さんが編集長で、近年はボランティア数人と作業する。「いま『荻窪を知りたい』という声がすごく強いんですよ。定年退職した人や、引っ越してきた子育て世代が興味を持っている」
(昭和40年代の荻窪駅前広場の写真)

 松葉さんは小学校入学前の四一年、荻窪に引っ越してきた。当時は、畑が広がる自然豊かな場所だった。高校卒業後、アルバイトなどを経て、父が経営する農業系の出版社で働いた。北海道や東北地方の農村部を営業で回るうちに、農家の故郷や土地に対する強い愛着を感じた。
 一方で、荻窪に帰るとベッドタウン化が進み、寝るだけの人が多いように見えた。「街の発展のために、地元のことがよくわかるタウン誌を作ろう」。商店街の飲食店などから協力を得て始めた。「そんなに話題はない」と批判もあったが、始めてみると、どんどん情報が集まってきた。
 印象に残るのは、地元在住の作家、井伏鱒二との交流。井伏の自伝的長編「荻窪風土記」は、松葉さんが「荻窪のことを書いてくれませんか」と依頼し、郷土史家や古老を案内して、完成したという。「井伏さんはお酒が強くて、二人で明け方まで飲みながらいろんな話を聞いたこともある。でも私はお酒が弱くて、あんまり覚えてないんだよなぁ。もったいない」
 雑誌名は、百点満点の街になってほしいとの思いを込めた。「いまの荻窪は百点。と言いたいところだけど、荻窪駅が高架にならず、南北に分断されたままだから、まだまだだね」と手厳しい。
(荻窪駅前の「荻窪タウンセブン」が1981年に完成する前には、戦後の闇市から発展した商店街が広がっていた。の写真)

(かつて荻窪駅前の商店街があった場所はショッピングセンター「荻窪タウンセブン」に の写真)

 昨年末に肺の病気で、緊急入院した。体力の衰えを感じ、今年一月号で休刊することにした。「楽しくってあっという間だった。必要としてくれる人もいる。でも止まった…」。声を落とした。
 ただ、筆を置いたわけではない。インターネットサイトの「荻窪百点.com」で、地域の情報をブログで発信していく。休刊の知らせもブログに動画を載せて、自分の声で伝えた。
 五十五年間の「財産」を後世に伝える活動も始めた。取材で収集した写真や資料を今後のまちづくりに活用する「荻窪百点の会」をつくり、膨大な写真の整理に取り組んでいる。会では、写真展や荻窪の歴史を知るガイドツアー、クイズ形式の「荻窪検定」などを運営していくつもりだ。すべては、愛する荻窪に生かしてもらいたいから。「正しい情報を伝えながら、過去のいいところをみんなに知ってもらうことが、これからのまちづくりに必要だと思っている」
 文・三輪喜人/写真・兎澤和宣、三輪喜人