
西郊ロッヂング
[char no=1 char=”松葉編集長”]西郊ロッヂングの名前の由来は。皇居の西側に作ったからです。[/char]
西郊ロッヂングはアメリカンエキスプレスのある荻窪ビルの南側、かたわらに「明治天皇荻川御小休所」の石標がある長屋門があります。その前の道を東に行くと対象的に、おやっと目を引く西洋館に出会います。昭和6年に当時はモダーンな西洋館で高級下宿を開業、現在は、賃貸アバートメントと、仕切って「割烹旅館・西郊」を営業している「西郊ロッヂング」です。
なぜ、荻窪に?。
現当主・平間美民さんの父・美喜松さんは、文京区本郷で下宿をしていた。ところが関東大震災で被災。安全で安心できる新たな地を東京市の郊外に求めたのがきっかけでした。イメージしたのは湘南の葉山。宮内庁の仕事をしていた美喜松さんは御用邸があった環境に似たところを探したのです。候補地として絞ったのが、落合と荻窪。そして選んだのが、当時、別荘地として名の通っていた荻窪でした。
駅まで5、6分のところにもかかわらず、家が2、3軒。田園風景の広がりの中に別荘感覚で、ここでのロッヂを構想したといいます。
当時の下宿ば和室が常識。ところが、美喜松さんは、当時には珍しい洋館づくりで洋室としました。フローリングでドア、各部屋にはマントルビースにクローゼット付き、括り付けのべット、そして、室内電話をつけた超モダーンでおしゃれな高級下宿にしました。今でいうプチホテルでしようか。ネーミングは、皇居の西の郊外にある下宿、格上げした名前をと「西郊ロッヂング」としました。
通常下宿の倍の家賃だったにもかかかわらず、いつも満杯。人伝てに聞いた希望者が空き部屋を待つほどでした。人居者は、軍人、軍属、学生で、賄い付きの下宿とあって大変な人気でした。戦争中には、中島行機製作所の技術将校、社員や日本無線など、荻窪の大きな軍需会社の関係が定宿としていました。戦後になって、 半分をアバートメントに、半分は和室に直して旅館としました。昭和3 0年代の景気がよい頃は、それが的中して、お座敷は企業の接待など連日、宴会があり、お泊まりのお客も増えました。時代とともにお客様は変わり、4 0年代がらは、リラクゼーションのためのリビーターの利用が増えてきて、それも荻窪周辺ばかりでなく遠くは横浜がらも来ました。気分転換に絶対いいということのようです。
現在は、半分の賃貸アバートメントと仕切って旅館を営業していますが、新しいビジネスホテルなどが増えている中にあっても、意外に古い建物に若い人の人気があり、昔の西洋館は、年配から若い人まで幅広い泊まり客が絶えません。
建物としては、立地条件からいっても通常は建物の角に人口をつけますが、この建物は鬼門に当たるので、そうしなかったのです。しかし、かえって味のある建物になって、古き良き時代の西洋館は、静かな住宅街のたたづまいに異色な存在として、だれもが興味をそそるのでした。
住所 東京都杉並区荻窪3丁目38−9