荻外荘(近衛文麿旧宅) 撮影:荻窪百点

荻外荘(近衞文麿旧宅)

松葉編集長松葉編集長

荻外荘は、昭和22年7月から23年10月まで、自由党総裁である吉田茂が荻外荘の人でした。

荻外荘は激しい政変の中、 近衛文麿公爵が8年間の波乱に満ちた人生を過ごした居宅です。
大正天皇の御典医であった人沢達吉博士が 大正初年、高級別荘地と知られ善福寺川を下に一望をおさめ、遥か富士の霊蜂を眺める景勝地としてこの辺りを、地主の中田村右衞門から松林1町歩を反当り7 0 0円で買い求めて建てた別荘でした
「荻外荘」の名は、表門のある敷地の西半分が荻窪、裏門とした東半分が成宗なので、元老西園寺公望公が、「荻外荘」と名付けました
文麿公が、昭和1 2年に第一次近衞内閣を成立させて以降、終戦まで、表ばかりでなく、時には陰の政治の中心となって、その活動ぶりが毎日のように新聞紙上を賑わし、「荻窪の荻外荘」の名とともに荻窪の地名が一躍世に知られ、荻窪の高級住宅地賭してのイメージをよ り一層に強いものにしていきました。
軍部の台頭を押さえるために新しい政治理念を掲げ、穏健派の重臣、文化人の信望を一身に、4 6歳の若さで大臣に就任するが、強硬な軍部と財閥を相手に平和の道を歩むことは至難でした。理想と軍事協力の板挟みで苦難の中を過ごした荻外荘でした。「荻窪会といわれ、後に政治責任を問われた東條英機を含めた四相会談も、ここが舞台でした。第一次近衞内閣、そして、15年に第二次近衞内閣、昭和16年に第三次近閣の首相をつとめますが多難な道でした。
7月に荻外荘で、対戦の重大会議を開くも決せず、16日総辞職します。そして18日に東条内閣成立して12月8日、対米英宣戦布告太平洋戦争に突入しました。また、近衛文麿は、昭和20年2月、日本敗戦必至を天皇に奏上し、7月に和平の使節として訪ソを決定したが、ソ連より拒絶され、8月15日、天皇力、無条件降伏を放送しました。
終戦後、GH Qより戦争犯罪人に指名され逮捕状が出されると、それを心快しとしない文麿公は、昭和20年12月16日、荻外荘にて服毒自殺。歴史的最期を遂げられました。
荻外荘は、昭和22年7月から23年10月まで、自由党総裁であた吉田茂が荻外荘の人でした。第二次吉田内閣の成立で芝白金に移っていきました。
近衛文麿公の次男通隆氏は昭和37年、2500坪あった家の東側半分を取り壊して100坪にし、近衞公が亡くなられた書斎は南側の廊下のある居間に改造されて、居宅としていましたが、通隆氏が平成24年死去されたため遺族の方が杉並区に寄贈され、現在、整備が進めれている。
なお、平成29年、国の文化財として指定された。
☆近衛文麿公は、北家藤原の本流で、天皇家と最も親しく五摂家の筆頭。公爵。

東京都杉並区荻窪2丁目43 2 丁目