
荻窪白山神社
[char no=1 char=”松葉編集長”]「白山さま」と親しまれている町の鎮守です。
細く長い参道は、途中、路地で分断されて、やや右へ折れ、神殿に通じます。この曲がりが、京都の桂離宮の門から車寄せへの曲がりを思わせ、木立ちの茂る中に奥ゆかしさを感じさせ神社を引き立てます。 ・・・[/char]
社伝によると、「旧下荻窪の鎮守として百参代後土御門天皇の文明年間(1469~1486)に関東管領上杉顕定の臣、中田加賀守が知行千町歩( 3百万坪)を領して荻久保に住んでいましたが、管領没落して後に野に下り、この地の百姓となって名を大学と改めました。
この人は、敬神の念すこぶる厚く屋敷地内に 五社’を動請して崇め祀っていた」とあり、これを白山神社は縁起としています。その頃は、五社権現と言っていました。
祭神:伊邪那美命例祭日は9月8日。鎮座地杉並区上荻1丁目21番7号、境内敷地千三百坪( 4 2 9 0 )。
社殿は、慶応元年9月に改築されたようですが、茅葺きの建物の傷みが激しく、昭和4 2年2月1 0日から解体し建替え、昭和4 3年5月に現在の鉄筋コンクリート造りの社殿となりました。
☆「新編武蔵風土記稿」によると、
「下荻窪の五社権現社年とあり、除地1 1 0坪余、本社六尺四方、拝殿3 間に1間半、南向き、神体は白弊。上荻窪光明院の持とあり、大正1 3年 6月に村社となった」とあります。
☆中田家の屋敷社と松:
中田家の祠が、鳥居前の線路ぎわにありましたが、甲武鉄道を通すために移しまた。社殿の後ろに中田大学が植えたといわれる大きな老松がそびえていましたが、昭和2 3年に松喰虫の被害で枯死してしまいました。
☆歯痛の神様
中田大学の弟、兵庫は歯痛に悩むことが多く困っていたところ、ある夜、神託で「汝、吾が社前に生る荻を以て箸となし、食事せよ。歯痛は癒えん」とあったので、そのようにしたら直ちに歯痛が治癒したといいます。それ以来、これを伝え聞いた人達が境内に茂る荻を箸として使い、「歯痛の神様」と参拝し信仰厚く今に伝えます。昭和4 3年に改築されたましたが、それまでは茅葺きの由緒ある風雅なつくりで、建て替えた時に、古い社殿の長押に荻の箸がいっぱいに詰まって出てきました。
☆白山神社の女神輿
荻窪に何か名物が欲しいと、氏子総代である新興マーケットの鯛焼やさん・コバルトの野辺節義さん、北ロ大通りの居酒屋津久波の星野末吉さんらが中心となって考えたのは「女みこし」でした。祭神が伊邪那美命であることから、女神輿が生まれ、昭和5 4年から神社神輿とともに渡御します。掛け声は素朴に「ワッショイ、ワッショイ」としました。
なお、杉並区文化財案内標示板によると
この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
下荻窪村が中世に村をつくっていたことは、宝徳3年(1451)の上杉家文書や、昭和54年に荻窪三丁目33番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。
当社の起源は、社伝によると文明年間(1469~1486)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。
当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。
その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に1株残っているだけになりました。昭和43年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。
社屋や数多い奉納品の中、昭和3年に奉納された御輿は150貫余(約563キログラム)もあり、また大太鼓(直径149センチ)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第2の大きさであるといわれます。
昭和42年環状8号線拡張にともなって本殿、拝殿、社務所、玉垣などの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。昭和56年2月15日
東京都杉並区上荻1丁目21−7