光明院 撮影:荻窪百点

光明院

松葉編集長松葉編集長


観音さまと親しまれている光明院は、寺伝によると、鎌倉街道に沿って、鎌倉幕府の北の祈願所として建立されました。七堂伽藍を備えた大寺院でしたが、天保1 1年(184年2月、大火により焼けてしまいました。この時、記録も焼失してしまい寺の詳細は分かりません。・・・・


☆「新編武蔵風土記稿」によると.
「除地一町八段一畝二十四歩、青梅街道内にあり、客殿五間半に六間、東向きなり、本殿千手観音の座像を安置す。長さ三尺八寸、開山開基詳しからず、されど、当寺世代の僧、権大僧正弁教は、寬文六年(1666)三月示寂せりと言えば、それより前の起立なることを知るべし」とあります。
所在は、豊多摩郡上荻窪村→井荻村大字上荻窪3 7 4
☆光明院の寺地                         光明院は、大寺院として大きな寺地を持っていましたが、神仏混淆から明治になって神仏分離となった時、荻窪八幡神社、神明天祖神社、荻窪白山神社の4つに寺地が分割され、それぞれが持つようになりました。      これで光明院の寺地は、かなり小さくなりましたが、それだけでは済みませんでした。甲武鉄道を通すために用地を提供、境内が分断され、その後には、環状8号線の拡幅で寺地が削られ、さらには国鉄中央線の複々線化によって寺地は削られ狭くなりました。
☆「荻窪の地名」の碑                        
寺の縁起とともに「荻窪の地名」のいわれを記す和銅元年( 708年)の石碑が境内にあります。「荻窪の地名となった」といういわれがあります。
☆劇団活動                             
昭和 年、本堂が建て替えられました。住職、田代広範さんの先代住職の妺、田代のぶ子さんは劇団文学座の女優でしたので、建て替えた本堂の地下に舞台をつくり劇場とし、文学座の舞台稽古に使われました。田代広範さん自身もビッコロ人形劇団を主宰し、ここで公演もしましたが、今は葬斎場になりました。
☆散歩の小経:                   
昔、境内は自由に行き来していました。町の人の生活通路で した。葬儀などで境内を行き来することを制限してから、それを取り戻すかのように代わりに「散歩の小径」という名前を付けた路をつくり、四季の花などを楽しめます。

なお、杉並区文化財案内標示板によると

慈雲山光明院は、真言宗豊山派の所属で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背おった遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
本尊の千手観音像は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や、室町期の板碑などが出土しており、当時の開創は南北朝期にさかのぼれるものと考えられます。
今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。

昭和55年2月20日

東京都杉並区上荻2丁目1−3