〜荻窪地域区民センター協議会のパネル展示から〜
荻窪地域区民センター協議会 副会長 松井和男
阿佐ヶ谷で育った作家・川本三郎氏は、荻窪についてこんな文章を書いています。
「中央線も荻窪まで行くとまだかろうじて郊外の面影が残っている。とくに南口から歩いて五分ほどの、善福寺川を望む高台の住宅地には、ケヤキのある家が多く、武蔵野を思わせる」(『郊外の文学史』)
この文章に続いて、川本氏は荻外荘と大田黒公園にも触れていますから、「善福寺川を望む高台の住宅地」とは、都市計画上の区分でいう「大田黒公園周辺地区」ということになるでしょう。
あらためて紹介すると、荻窪駅の南に位置する同地区は、面積約四○ヘクタール(東京ドーム約九個分)と決して広いエリアではありませんが、国指定史跡の荻外荘のほか、西郊ロッヂング、旧大田黒家住宅、渡辺家住宅、旧角川邸と、四つの国登録有形文化財が集まる都内でも珍しい住宅地です。
武蔵野を思わせるケヤキの大木や文化財に登録された邸宅、それらから浮かびあがるのは、かつてあったと思われる「緑豊かな田園都市」の姿です。いったい、それはどのようなもので、どのようにして生まれたのでしょうか。
昨年の十一月、荻窪地域区民センター協議会が同センターで開いたパネル展示『荻窪の記憶~大田黒公園周辺地区一○○年の歴史』の内容をもとにご案内しようというのが、本稿の目的です。ちなみに、同展は、この三月十七日から六月十七日まで、「区民参加型展示」として天沼弁天池公園内の郷土博物館分館でもほぼ同じ内容で開催されます。
では、さっそく、明治・大正・昭和にわたる大田黒公園周辺地区の歴史をたどってみましょう。
それは、別荘からはじまった
江戸時代の荻窪は住民のほとんどが農業に従事し、江戸市中へ野菜を供給するほかは自給的な暮らしを送っていました。明治に入り、新しい時代を迎えても、その暮らしに大きな変化はありませんでした。
しかし、明治二二年の甲武鉄道(のちの中央線)の開通と同二四年の荻窪駅の開設は、荻窪の存在を東京市内に住む人々に知らせることになり、畑や山林だった土地を購入する人たちが現れはじめました。いずれも、西洋の学問や医学を日本に移植したり、産業を興すことで日本の近代化を担った人々で、購入された土地は現在の大田黒公園周辺地区とその隣接地でした。
確認できるかぎりで一番古い土地購入者は菊野七郎です。菊野は、加賀藩から江戸に派遣され、「わが国フランス学の始祖」といわれた村上英俊の塾に学んだフランス語学者で、維新後は、仏書の翻訳やお雇い外国人の通訳に活躍しました。ひ孫の菊野一雄さんによれば、翻訳した『陸軍歩兵操典』(出版は明治七年と二○年)がベストセラーになり、その印税で荻窪に数万坪の土地を買ったとのことです。現在の杉並区立中央図書館や角川庭園の敷地もその一部でした。
明治三二年から四一年にかけては、倫理学者の中島力造【安政五年(一八五八)~大正六年(一九一七)】が、現在の荻窪三丁目に数千坪の土地を購入しています。中島は、同志社英学校の最初の学生の一人で、イェール大学で博士号(哲学)をとり、帝大で教授を務め、英語の「パーソナリティー」の訳語として「人格」を定着させたのも功績の一つです。
明治四一年から四二年にかけては、内科医の入澤達吉【元治元年(一八六五) ~ 昭和一三年(一九三八)】が、現在の荻窪二丁目に後に「荻外荘」となる土地を購入しています。妻の常子によれば、中島力造の勧めだったようです。
蘭学医の家に生まれた入澤は、東京大学医学部予科に最年少の一一歳で入学、「明治医学の父」と呼ばれるベルツに学び、ドイツに留学。帰国後の明治三四年、東京帝国大学教授となり、ベルツ内科のあとを受け入澤内科を創設します。大正一三年には大正天皇の侍医頭になり、その崩御にも立ち会いました。森鴎外の後輩に当たることから鴎外全集の編纂委員を務め、与謝野鉄幹、晶子夫妻をはじめ文化人とも広く交流しています。
明治四四年以降には、実業家の山田直矢【万延元年(一八六○) ~ 昭和一四年(一九三九)】が、入澤の購入した土地の隣に一万坪を超える土地を購入しています。山田は薩摩藩士の家に生まれ、母方の叔父大久保利通が「鉱山を盛にして金銀を掘り出さなくては、日本の財政は立っていかぬ」と話すのを聞き、大学で「採鉱冶金学」を専攻し、ドイツに留学。帝大教授を経て三井鉱山(現: 日本コークス工業)に入り、三池炭鉱専務理事などを務めました。
清涼なる大気、高台の眺望
いわば『坂の上の雲』世代の知的エリートたちが、市内に家を持ちながら荻窪に土地を求めたのは、なぜでしょうか。明治四三年に出版されたガイドブックがヒントを与えてくれます。
「荻窪駅、東京市に近く且つ市街と異なり因塵至らす大気の清凉は健康に適セリとて都人士の別墅を設くるものあり他日有望の地ならんか」(『中央東及び西線川越線青梅線鉄道名所』)。
荻窪は東京近郊にもかかわらず、空気がきれいで健康によいと、(工業化による市街地の環境悪化が進むなか)意識の高い人々が別荘を設けはじめたので、今後の発展が期待できるというのです。入澤の師ベルツがもたらした「大気療養」や「保養」という考えは、海浜の湘南を別荘地として有名にしましたが、明治の末年になると、武蔵野にも目が向けられたことがわかります。
入澤の妻・常子は、荻窪に土地を入手したころを振り返って、こう語っています(『わが家の自慢』朝日新聞)。当時、一家は日本橋に住んでいましたが、人家が建て混んで日も当たらない不健康な所だったため、毎週末、汽車に乗って子供たちを荻窪の丘まで日光浴に連れてきたというのです。荻窪の土地取得と健康が深く結びついていたことがうかがわれます。
では、広大な武蔵野のなかでも、荻窪とくに現在の大田黒公園周辺地区が別荘の適地として注目されたのは、なぜだったのでしょうか。答えは、川本氏がいう「善福寺川を望む高台」にあります。善福寺川が大地を浸食することで生まれた高台からは、青々とした水田、松林の上に聳える富士という素晴らしい眺望が得られたのです。昭和に入って邸宅を新築した入沢達吉は田んぼや川向こうの松林まで買い求めていますが、それはお気に入りの眺望を開発から守るためでした。
大正八年の地図
郷土史家の都筑勝三郎の記憶によれば、大正八年ごろの大田黒公園周辺地区は、「ほとんどが畑、雑木林で、川沿いの低地は田んぼ。夜は真っ暗で、お不動山(現在の荻窪四丁目)の辺りには狐がでた」そうです。
都筑勝三郎の記憶にもとづいて描かれた当時の地図には五軒の別荘が見えますが、入澤、山田を除く三軒は大正に入ってから土地を入手したものと思われます。
床次別荘は、現在の塚本総業公邸(荻窪四丁目)の場所にあり、主の床次竹二郎(とこなみたけじろう)【慶応二年(一八六六)~昭和一○年(一九三五)】は、樺太庁長官、内務、鉄道、逓信の各大臣を歴任した大物政治家。酒も飲まない、煙草も吸わない、夫人とともに和歌をたしなみ、ゴルフの代わりにテニスを楽しむ。近代的な政治家で、小市民層にも、女性にも人気があったといいます。
平野別荘はいまの「アンサンブル荻窪」(荻窪五丁目)の場所にありました。主の平野哲五郎は、明治三五年に紙製の鉄道荷札を発明し、財をなしたことから、「荷札王」と呼ばれていました。別荘は豪壮な洋館で、鬱蒼とした林に囲まれていたといいますが、いつ建てられたのか判然としません。
残る前田別荘についても、現在のところ何もわかっていません。
「軽井沢のような別荘地」
小学校時代、毎日曜日、母親と別荘を訪れていた入澤家の次男・文明は、当時の荻窪をこう回想しています。「駅前にはソバ屋が一軒あるだけで、一望の畑と林。荻窪はいまの軽井沢のような別荘地だった」(『沿線ものがたり』東京新聞)
軽井沢といえば、「子供のころ、川向こうの別荘で白い服を着てテニスをしている人たちを見て、自分たちとは違う世界があることをはじめて知った」。こんな話をお姑さんから聞いたという女性もいます。当時、山田別荘には、娘さんのために作ったテニス・コートがありましたから、川南の農家に住んでいたお姑さんは、善福寺川の対岸からテニスに興じる人々を見たのでしょう。
郊外住宅地の誕生
大正を迎えても荻窪の変化は緩やかでしたが、東京市の人口膨張によって宅地化の波は中野近辺まで押し寄せていました。そんな大正一二年九月一日、関東地方を大地震が襲います。甚大な被害に市内は深刻な住宅不足に陥り、井荻村(現在の杉並区北西部)の人口は、市内からの流入人口でたちまち二倍になり、その後も増加の一途をたどりました。
急激な人口増を象徴するものに、昭和三年の桃井第二小学校の開校があります。井荻村には、明治八年から六○年間にわたって小学校は現在の桃井第一の一校しかありませんでした。しかし、震災後の人口増で、桃井第二、第三を嚆矢として次々に開校を迫られたのです。
開校当時の桃二小の父兄の職業を見ると、農業が四○人に対し、会社員、官吏、工業、教員軍人、銀行員などの給与生活者が一三七人にのぼり、震災を境に荻窪が農村から郊外住宅地へと変わっていったことがわかります。昭和三年に発行された『新興の郊外 井荻町誌』はこう述べています。
「中央線の電車も以前は三十分おきであつたが、其の後十二分おきとなり、(略)昨日まで一望の畑地であつたものが、今日は立派な文化住宅地と化しつゝある」。かつてはキツネが出たという「御不動山」も、「名士の住宅が櫛比して建設せられ(略)名高いところになっている」。
現役を引退した入澤達吉が、義弟の建築家・伊東忠太(代表作に築地本願寺など)の設計で、本宅として粋を凝らした邸宅を建てたのも昭和二年。それを近衛文麿に譲ったのは昭和一二年のことです。戦前の大田黒公園周辺地区について、荻窪の歴史を見続けてきた都筑勝三郎は、こう語っています。
「有名な人たちは数えきれない程たくさん住んでおられました。当時、荻窪か鎌倉かといわれるくらいに、文化住宅地になっていましたね」(『まちづくりニュース』平成五年)
実際に、どんな人たちが住んでいたのかについては、郷土博物館分館で開かれる展示にゆずります。
また、同展では、昭和一二年ごろに撮影されたホーム・ムービーを上映しますが、その映像からは、「田園都市」の名がふさわしい木立に囲まれた洋館や文化住宅とそこで営まれたアッパー・ミドル・クラスの暮らしを偲ぶことができます。